「怒り」とのつきあい方|週末セルフケア入門
今回は「怒り」とのつきあい方について調べました。私はできるかぎり怒りたくないと思っています。ですが、怒ってしまうときもあれば、怒らざるをえないときもあります。自分にとって快適な状況を保つためには、怒りとのつきあい方はとても重要ではないでしょうか。
怒りたくない
怒るのはきらいです。疲れるし、気まずい。できるかぎり避けたいとおもっています。しかし、怒るしかないときもあります。ひとくちに「怒り」といっても、じっさいの状況は様々です。
自分を自分の怒りの被害者であるかのようにいってみました。事実はことなるかもしれません。怒っているのは私です。自覚がないだけで、じつは怒りっぽい可能性だってあります。
理不尽に怒ってしまうときもあります。たとえば、妻に食器の扱い方が乱暴だと指摘されたとき。私は、ときどき皿を割ったり、箸を欠けさせたりします。「ごめん、気をつけます。ありがとう」と思えればいいのに、「うるさいな~」と感じてしまう。感じるだけですませればいいのに、口に出す。早く謝れるようになりたいし、イラッとしないようになりたいです。
怒ったときの私は、ふだんと違う行動をとることがあります。『怒りは短い狂気である』という言葉もあるように、怒りは、自分、他者、関係の場そのものを壊すことがありうる。しこりがのこって、のちのちまで引きずることもあります。
自分に怒ることより、他者に対して怒ることのほうが多いかもしれません。他者に怒っている時間は、自分の人生の時間を、他者のためにつかっているということもできます。哲学者であり、ローマの皇帝でもあったマルクス・アウレリウスは『公益を目的するのでないかぎり、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな』と説きました。
一理ありますが、反論もあります。私はひとりで生きているわけではないので、他人に関する思いを無視して、よく生きることはできないような気がします。
セルフケアを考えることは、自分の人生について考えることです。それは、自分と他者の関係と、その距離感について考えることでもあります。具体的には、どうすればいいのでしょうか。
アンガーマネジメントについて調べてみた
怒りをコントロールする「アンガーマネジメント」という分野があります。関連書を読みました。圧倒的に分かりやすかったのが、水野広子『怒りがスーッと消える本』です。特になるほどと思ったのは、下記の三点です。
・怒るのは被害をうけたときである
・「予定狂い」と「役割期待のずれ」が怒りの原因
・本当は心が傷ついている
「怒るのは被害をうけたときである」。たしかに、食器の扱い方が乱暴なことを指摘されたときは「叱られた」という被害者感情があるような気がします。被害者感情があるから、相手が悪いことをしたとおもい、怒りを手放せなくなるのです。哲学者のセネカは『怒りとは罰を課することに対する欲望である』といっています。
「とっておいたプリンを食べられた」「終業直前に仕事をふられた」。これが「予定狂い」だといいます。シャワーを浴びようとしたら、洗濯物を畳んでほしいといわれて、ムカッときたことがあります。そのとき私は、洗濯物を畳むのは苦手なので、シャワーを浴びてすっきりしてからやろうと思っていました。
「上司が働かない」「恋人に無視される」。対人関係のなかで怒りが起こるときは、こういった「役割期待のずれ」があるそうです。相手が期待にこたえてくれないがために、自分が割を食っているという被害者感情が生まれます。
そして、怒っているときは、本当は心が傷ついていることが多い。状況だけにフォーカスするのではなく、心の傷にもフォーカスする必要がある。これにも納得しました。
怒りについて調べてから、私の行動は変わったと思います。カッとなったときに「あ、これは予定狂いかな」と、頭のどこかで考えるようになりました。それは、自分がなぜ怒っているのかということを、即座に検分しているということです。妻には「理不尽に怒ってから、謝るまでのスピードが早くなった」といわれました。
しかし、気になることはまだありました。それは、怒るしかないときもあるのではないか、ということです。
怒らなくていいとき、怒るしかないとき
山田陽子『働く人のための感情資本論』などによれば、現代は適切な感情管理ができる人間が求められる、感情資本主義社会であるといいます。社会人として求められる人柄というのは、朗らかで寛容、積極的だが、節度を知っている......そういった感情のコントロールに長けた人とされている。感情的である人は、仕事ができない人だというわけです。
しかし「できるだけ怒るな、怒るとしても適切に怒れ」というのは、いささか都合がよすぎる話ではないでしょうか。それは、本来多様であるはずの感情を、ひとまとめに「怒り=不適切」として抑圧する言葉です。
”「怒り」などの概念を学習するにつれ、子どもは、自身の身体感覚や、微笑み、すくめた肩、叫び、ささやき、噛みしめた唇、大きく見開いた目、まったく動かないことも含めて他者の動作や発生に意味を与えたり、予測したりすることで、怒りの知覚を構築できるようになる”(『情動はこうしてつくられる』p172)
リサ・フェルドマン・バレットは、『情動はこうしてつくられる』のなかで、「怒り」などの情動は生得的なものではなく、社会的に構築されたものだと主張しています。人間は、怒ることを社会のなかで学習するというのです。
だとすれば、自分の「怒り」を自分で作り変えていくことも、また可能ではないでしょうか。私は、怒るべきだと思って怒ることもあります。たとえば、ハラスメントがあれば、私は怒ります。怒らざるをえない。怒りを表明しないと、ハラスメントはいつまでたってもなくならないからです。
怒るしかないときは、たしかにあります。その感情こそが、かならずしも適切でない現状を変える原動力になります。願わくば、怒るべきものとそうでないものをより分ける知恵がほしい。そのためには、自分の怒りをしっかり検分することが必要です。自分は何に怒りを感じているのか。そうして怒りについての解像度を上げていくことが、生活をよりよくするために役立つのではないでしょうか。
読んでいただいてありがとうございます。