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依存症とセルフケア 後編|週末セルフケア入門

今回は、ギャンブル依存症当事者であるNさんとの対話から、依存症とセルフケアの関係について考えていきます。Nさんが依存症回復のために行ったことは、まさにセルフケアそのものでした。

前編ではNさんがギャンブル依存症になった経緯から、回復のために参加した自助グループで「自力感を手放し、自分の中をメンテナンスする」ためのプログラムに出会うまでの話を聞きました。

後編では、Nさんが依存症回復のために実際に行った「感情を言語化して共有する」「一日一日で考える」等の具体的な方法と、その実践から得た「自己」と「他己」の関係について書いていきます。

※ 本記事は、あくまで個人の体験についてのインタビューです。依存症に関するお問い合わせやご相談は、全国の専門医療機関・回復施設にお寄せください。
※ 新型コロナウイルスの感染拡大にともない、「オンライン自助グループ」の取り組みも行われています。
本記事は後編です。前編はこちら→「依存症とセルフケア 前編

①感情を言語化して共有する

――依存症回復のために、どんなことを実践したのでしょうか?

Nさん:まず、自分の感情に真正面から向き合いました。
誰にぶつけるでもなく、自分が抱えている感情を吐き出す。感情を言語化する。それがすごく重要です。モヤモヤしていると、よく分からないままに感情が膨らんでいきます。これを「ジャグリング」と呼びます。考えが自分の中を行ったり来たりしているうちに増幅されていき、やがて依存症という形で噴出してしまう。

感情を捉えるには、言語化がスタートだと確信しています。思っている以上に、自分の感じていることって捉えづらいんですよ。どうしようもなくなったとき、僕は自分の感情を文章にすることにしています。

日記や「自分の年表」を書いたこともあります。思い出す限りの自分の歴史を全部書いて、そのときの感情も書き出す。それまで自分が抱えてきた感情に対して、全然ケアできていなかったことに眼を向ける。いちど書き下すことで、客観視できるようになります。

そのうえで、自分の感情を人と共有します。自助グループや回復施設で行っていることは「感情の言語化と共有」なんです。

――言語化と共有はセットなんですね。

Nさん:言語化だけでも効果がないわけではないんですが、一歩進むために共有する。そのために「秘密の場」が重要です。でも、自分の秘密を気軽に喋れる場所ってなかなかないんですよね。キリスト教圏だと「懺悔」文化があります。「ここで話したことは、誰にも伝わらない」という場の感覚がある。日本では、その教会にあたるものが少ない。

共有相手は選ぶべきだと思っています。インターネットだと難しい。秘密が守られたサークルで言語化と共有を行うことは、いまでも必要です。吐き捨てるだけでも全然違うので。

②報酬系から距離を取る

Nさん:HALTという言葉があります。Hungry(空腹)、Angry(怒り)、Lonly(寂しさ)、Tired(疲労)の頭文字をとったものです。この4つがメンテナンスされていないとき、本能の暴走が起きやすいとされています。これを自覚するようにします。

かつて僕は、疲れているときほど麻雀をしていました。自分がどれだけ疲れているかって、意外と分からないんです。依存症をはじめとする報酬系の神経の働きは、問答無用で気持ちよくなるので、最中は自分を省みる必要を感じません。

だから、刺激の反復によって神経回路が強化されていく、報酬系のはたらきから距離を取る。ギャンブルの他に、たとえばアルコールやニコチン、SNSやポルノもそうですね。そういった刺激や報酬系から距離を取ることは、自分の中にある欲望を見つめ直すこととつながっています。

「遊び方を覚える」というプログラムもありました。それまでは、時間があるときは酒やギャンブルをやるしかなかったのが、海に行ったり、ランチに行ったり、他にも色々あると知る。それまでやってこなかった楽しみを見つけるんです。

③傷つけた人への埋め合わせ

Nさん:「依存症によって傷つけた人をリストにして、埋め合わせをする」という活動もあります。基本スタンスは、許しを求めないことです。依存症当事者が考えがちなのは「謝っても許してもらえない」ということ。そうではなくて、「許すかどうかは相手側の問題なんだ」と気づくことが最初の段階です。

この「埋め合わせ」は、誰かのためにやろうと思うとできません。自分にフォーカスして、自分本位で考えるんです。他人との関係よりは、自分の中で取りこぼして、澱のように溜まっていたもののために行動する。それが思想の根っこにあります。

――許してもらうのではなくて、自分の中を埋め合わせるのでしょうか。

Nさん:はい。自分を見つめて、自分の取りこぼしてきたものを、再び得るためにやる。だから、許すかどうかは相手に任せます。そこで「自己」と「他己」の境界線をはっきり引く。誰かのせいで行動している感覚から逃れるために、それが必要なんです。

じつは「家族のために依存をやめる」という人は大体やらかします。これは僕個人の持論ですが、「誰かのために」と思っていても、新しい生き方を得られている人は、心のどこかで「自分のために」という感覚が絶対にあるはずなんですよ。家族のためと言っていても、そのことで自分が得ているものは必ずある。「自分ひとりの身体じゃないからやめる」より「自分の身体だからこそやめる」がしっくりきます。この考えになってから、僕は楽になりました。

――結局、「自分」ってなんですかという話になりますよね。自分の存在を「縁の束」だと考えると、セルフケアと相互ケアはそんなに差がない

「自己」と「他己」を捉え直す

Nさん:まったくその通りだと思います。自分のために生きていこうとすると、結局どこかで他人との関係を考えなくてはいけないときが来ます。そこで「自己」と「他己」が切り離せるようで切り離せないことに気づくんです。自分の行動はめぐりめぐって他人に影響を与えていて、逆も同じ。だから、いまは「縁」の実感を持つようになりました。

たとえば僕なら、自分にとって心地良い感覚を求めたときに、家族や友人、同僚と一緒にいるときの感覚と切り離せません。完全にひとりで立っていると考えるのはどうしてもおこがましいと感じます。

――つまり、構造の中のひとつのスポットとして自己を捉え直す

Nさん:だからこそ、切り離されると何もできなくなる。かといって、すべてが外部からやってくるわけではない。そうすると、自分がただの「通路」になってしまう。そうではなく、そこに自分がいる感覚は間違いなくあります。

――これはまさに、人間の「意志」についての話ですね。

Nさん:行動に関しては自分から発生したものであり、いくら周りから影響を受けたからといって、やると決断したのは自分だよねと自分自身に対しては思います。誰かに無理やり雀卓の前に座らされて、打たされたわけではない。でも、ギャンブルをやめた人がみんなそういう感覚を持っているわけではないんです。あくまで、そうすることで私は生きやすくなっているというだけ。

いま述べた考え方はあくまで内省であって、他人に押し付けるものではけっしてないと思っています。本人が行動の原因をどう捉えているのかは、本人にしか分からない。本人にも分からないかもしれない。それを他人が決めたり誘導したりするのは、とても微妙なところです。

たしかに、自分の行動は他人に影響を与え、自分に返ってくる。ひとから責められることもあります。そんなとき、自分に対してだけは「自分がやったことでしょう」と言う必要があります。しかし、この言葉はあくまで自分が自分に対して問い直すためのツールでしかない。「自分がやったことでしょう」という言葉は、他人に言ってはいけないと思うんです。他人に対してこの言葉を使って、自己責任を求めるのは筋違いなんじゃないでしょうか。内面は、当人にしか分からない聖域だと感じるんです。

おわりに メンテナンスの思想

――教えていただいたことは、今もストイックに実践しているんでしょうか。

Nさん:お話したことには「こうしたい」「こうありたい」も混在していて、全部実践できているわけじゃないんです。「できた」と思ったときに行き詰まる感じもあります。あくまでチェックポイントを越えていく感じ。そのつど、自分をふり返る。

自助グループもそうです。「放っておいているわけじゃない」くらいがちょうどいい。失敗を予測して「やっぱりだめだった」と落ちていくのが怖い。セルフケアもそうで、義務感じゃなくて「やれたらいいな、やっていこう」と思ってさえいれば、どこかで行動にうつすこともあるだろう、それくらいがいいんじゃないかと思います。

――セルフケアをやりたい人って、まじめな人が多いんですよ。

Nさん:「ゴールがない」という考え方は大事だと思うんです。依存症からの回復は「回復した」と言いません。「回復している最中」と言うんです。つねにそうしています。「回復した」は死んだとき。だから、意識して「回復途中者です」と言っています。完了することがないので、機能を保ち続ける「メンテナンス」という言葉がしっくり来るんです。

依存症については、一日一日という考え方がすごく重要なんです。明日のことは考えない。「きょうはやらなかった」ことが大切です。

――本当にセルフケアとそっくりですね。依存症回復とセルフケアは、同じ状況に対処しているような気さえしてきました。どうもありがとうございました。



読んでいただいてありがとうございます。