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セルフケアのためになった本7冊|週末セルフケア入門

セルフケアについて考え始めたきっかけは、35歳になった自分の身体の変化でした。自分で自分の面倒をみる、自分にとって快適な環境を保つ、そのうえで上機嫌に暮らしていくためには、どうすればいいのか。調べていくうちに気がついたのは、それはまさに「いかに生きるべきか」という問題そのものだったのです。

セルフケアを検討することは、結局のところ、自らを知り、自分をとりまく世界との関係について考えることでもありました。身体・経済・社会の変化は、しばしば私の生活をまったく別のものに作り変えてしまいます。病気になったり、仕事を失ったり、不平等な扱いにさらされたりすることを無視して、生活だけを考えることはできません。

今回は、「週末セルフケア入門」を始めてから読んだ・再読した本のうち、大きな影響を受けたものの一部を紹介します。本noteを書き出してから、驚くほど多くの方から、さまざまな感想を頂きました。ここに紹介する本のほとんどは、そんなやりとりのなかで出会ったものです。ここにあげたものが影響を受けたすべてではありませんし、私に紹介する力がないために選べなかった名著がたくさんあることをお断りしておきます。

東畑開人『居るのはつらいよ』(医学書院)

本書は「紀伊國屋じんぶん大賞 2020」第一位を受賞しました。毎日出版文化賞の企画部門を受賞した「ケアをひらく」シリーズの一冊です。

著者は、沖縄のデイケアでの仕事を通して、「ケア」と「セラピー」のあいだに潜む隠された罠に気がついていきます。なぜ「居るのはつらい」のか。居場所とはいったい何なのか。「ただ、いる、だけ」の価値についての思考がそこにはありました。いいかえれば、存在していること自体の価値についての思考です。

学術書なのに、恐ろしく読みやすいことに驚かされました。「存在していること自体の価値」についての文章を、こんなにも腑に落ちる形で読んだことはありませんでした。しかも、その文体の形式は、内容と完全に合致しています。著者は、エッセイ/ 学術書の新たなスタイルを生み出したといえるのではないでしょうか。存在の価値についての思考は、「意識の高い」セルフケアではなく、本当に自分を配慮するセルフケアの欠かせないものだと思います。

中島義道『人生を〈半分〉降りる』(ちくま文庫)

「哲学的生き方」について書かれた本です。いかに世間から距離をとり、自分の人生にフォーカスするか。私と社会の関係のうち「おのれの領域」とは何であるか。もっとも重要なこと、日常卑近な生活に鋭い目を向けよ。哲学者による、経験に基づいた提案の数々は、そのままセルフケアの提案として読むこともできます。

本書の第1頁は「プロローグ あなたはまもなく死んでしまう/ 自分のための時間を確保せよ」と名づけられた章から始まります。これは、後期ストア派哲学の言葉です。後期ストア派哲学とは、他人のことよりもまず自分のことに配慮すべきであると考える、人生哲学の一群です。セネカ『生の短さについて』、マルクス・アウレリウス『自省録』、エピクテートス『人生談義』などがその代表的著作だといわれています。その哲学は、自己中心的かもしれません。しかし、半分それでいいと著者はいうわけです。なぜなら、私たちはそのうち死んでしまうのだから、他人にかまけて人生を終えてしまうわけにはいかないからです。このように、ハッとさせられる本物の思考が詰まった本です。

私は著者の提案すべてを実行することはできていませんが、完全に隠遁するのではなく、半分だけ社会から降りるというアイデアを持つことで、ずいぶん気持ちが楽になりました。セルフケアは、世間とうまく距離を取ることが大切なように思います。

ルソー『孤独な散歩者の夢想』(岩波文庫)

フランスの哲学者ルソーが、晩年にものしたエッセイ集です。どのように心の平安を得るかが、孤独のなかで突き詰めて考えられています。

わたしの外にあるものはすべて、これからはわたしにとって無縁のものだ。わたしにはもこの世に隣人も、仲間も、兄弟もいない。地上にあるわたしは、もと住んでいた惑星から落ちてきて別の惑星にいるようなものだ(17頁)
どんな境遇にあろうとも、人がたえず不幸であるのはただ自尊心のせいなのである」(135頁)

と語りながら、

わたしはあまりたびたびあなたに会うのは苦痛だが、ぜんぜん会わないでいるのはなおさら苦痛だ」(176頁)

と言っちゃうルソー。ちょっとわがままなところがある。そんな人間らしいところに、きわめて共感します。彼はこうも言っています。

わたしがこのうえなく快い思いに沈み、夢みるのは、自分というものを忘れたときなのだ」(115頁)。

本当にその通りだと思いました。

本書を読んで、ルソーが大好きになりました。私は人見知りなので「ひととの関係のなかでケアされる」のが昔から不得意でした。そのこともあってセルフケアを考え始めたのですが、とうぜん、ひとりでできることに限界はあります。行き詰まったとき、ルソーはつねに友でいてくれます。きっと、何度も読み返すことになるでしょう。

メイソン・カリー『天才たちの日課』『天才たちの日課 女性編』(フィルムアート社)

本書は、天才たちが日々行っていたことは何か、どんな一日を送っていたのか、どんなときに制作を行っていたのかを詳細に調べた労作です。天才たちのセルフケアが紹介されているといっていいと思います。

とくに面白かったのは、作家は朝型と夜型に分かれ、どちらかというと朝型が多いこと。また、散歩をするひとがとても多いことです。勇気づけられるのは、かならずしも天才たちが恵まれた制作環境にいたわけではなかったこと。彼らもまた生活し、世の中の変動に押し流されながら、それでも時間をみつけて一筆一筆を書き付けていったのです。作家のみならず、芸術家、舞踏家、音楽家など様々な表現者たちが紹介されています。

生活とは何か。それは、習慣と出来事の緊張関係のなかで成立しているものではないでしょうか。日々変わらぬ習慣があって、昨日と今日を別物にする出来事があって、ようやく一日の生活が形をなす。そのことを教えてくれた本です。

清田隆之(桃山商事)『よかれと思ってやったのに 男たちの失敗学入門』晶文社

著者は、膨大なケーススタディにもとづいて、男たちがやってしまいがちな失敗の類型を紹介してくれます。いいかえれば、配慮に欠け、自他のケアがうまくない男性たちの実例を示してくれる本です。

とくに印象ぶかかったのは「謝らない男たち」の章で、自分の身を顧みながら、何度も膝を打ちました。著者は謝罪を「関係を続けたいという意志を示す行為」(72頁)だといいます。そもそも、過ぎたことは取り返しがつかないので、謝罪は、儀式以外の何物でもありません。それは「あなたにここにいてほしい」と示す儀式なのです。だから、謝ったからといってゆるすことを要求したり、相手にも非があるという態度をとることは、儀式を交渉と取り違えており、「謝っているようで実は謝罪になっていない」(64頁)ことになります。

セルフケアについて議論するとき、つねにジェンダー差は話題にのぼります。私は、男性は文化的な理由によって「自分はケアすることができる」という有効性の感覚が低いのではないか?そのため、課題を感じていてもセルフケアしないのではないかと考えています。つまり、セルフケアの成功体験が少ないことがボトルネックなのではないか。だから、バーバーに行ったり、味噌汁をつくったりして、小さな成功を積み重ねていくことが大切なのではないかと考えました。謝罪についても、さらに調べていきたいと思っています。

木村敏『時間と自己』(中公新書)

本書は、人間の精神と時間に関わり方について、「もの」と「こと」から考えていく本です。

著者は冒頭で、ひとを「もの」だけでなく「こと」で捉えることを提案します。私は、端から端まで私と呼べる「もの」だけではなくて、そのときどきに起きている「こと」とあいまってここにいるのだ、ということです。子どもの教育を考えてみれば分かりやすいかもしれません。子どもには生まれによる差異がある一方で、育て方によっても成長後の姿はまったく変わってきます。こういった考え方は、もっとミクロな、日々の生活にも当てはまるでしょう。

自分について考えることは、時間のなかにある「出来事」としての自分を考えることでもある。この考え方は、セルフケアに役立つように思いました。私は自分の身体を取り替えることはできませんが、行動や居場所、仕事などの「こと」に関する部分を改善することはできます。それだけで、私はずいぶん変わることができるのです。セルフケアのためには、「もの」「こと」両面で考えることが必要だと、はっきり考えるようになりました。

岸恵美子『ルポ ゴミ屋敷に棲む人々 孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態』(幻冬舎新書)

タイトルの通り、ゴミ屋敷に住む人々についてのルポルタージュです。住人たちは「セルフ・ネグレクト」状態に陥っている、その理由はきわめて多岐にわたるそうです。

本書の採用するセルフ・ネグレクトの定義は、

「通常一人の人として、生活において当然行うべき行為を行わない、あるいは行う能力がないことから、自己の心身の安全や健康が脅かされる状態に陥ること」

です。著者が報告するゴミ屋敷の生まれる原因は、人生そのもののように複雑で、とても他人事とは思えないものばかりです。身体が思うように動かなかったり、お金がなかったり、人生の意味を見失ってしまったりして、ゴミが堆積していく。援助する側は、セルフ・ネグレクトが、どこまで個人の自由意志にもとづいて行われているのか、という問題にぶつかることになります。本人がゴミを資産だと言い張る場合もあれば、何を聞いても「もう死んだほうがいいんです」としか答えないケースもあるのです。ゴミ屋敷に住む人々には、精神的な疾患を抱えておらず、合理的判断能力を喪失していないケースも多くあるそうです。援助者は、ゴミを撤去するような法的根拠のないなかで、相手と関係を築いていくことから始めることになります。

セルフ・ネグレクトとは、セルフケアを放棄した状態です。上記の定義をひっくり返してみましょう。セルフケアの定義は、

通常一人の人として、生活において当然行うべき行為を行い、自己の心身の安全や健康が脅かされない状態を保つこと

いかがでしょうか?

まとめ

大影響をうけている哲学の本をもっとたくさん紹介したかったのですが、私自身がその内容をまだまだ咀嚼しきれていないために、書くことができませんでした。またあらためて、本noteのなかでおすすめしていきたいと思います。


読んでいただいてありがとうございます。