傲慢だった自分の行いに対する懺悔

先日、友人の父親が亡くなった。

去年だか一昨年だったか、また別の友人の父親も亡くなっていた。

その二人の友人とは気が合う部分がありつつも、考え方や価値観が全く違う部分もあったりもする。
だから友人として長年にわたる付き合いがあるのだけれど、育った環境があまりにも違いすぎて、たまに戸惑う。

父を亡くした友人は、「頑張って父との楽しい思い出があるか考えてみたが、まったく思い当たらない。死んでも悲しめないことの方が悲しい。」と言っていた。

もう片方の友人は、「ついにあの親父くたばりましたよ!実家帰るついでに東京行くので飲みに行きましょう!」と言っていた。

どちらも、その報告を受けたときに、かける言葉がなかった。
「…あ、そうなんだ…それはまぁ…なんというか…」と口ごもるしかなかった。

2人はいわゆる機能不全家庭と呼ばれるような家庭で育っていた。
父親が働かなかったり、日常的に暴力をふるったり、酒浸りだったり。

なんか、分からなかった。彼らの背負ってきたもの、負ってきた傷。
「普通」の中学生や高校生が当然の権利として与えられてきたもの。
それが自分には無かったという悲しみや苦しみ。

そしてその原因の一つだった父親が自分のよく知らない所であっさりとこの世を去った。そのとき彼らの胸中に去来したものは何だったのか。

私のようないわゆる「普通の」家庭に育った…そう、父がもし亡くなったら100%悲しめるような家庭で育った人間には決して分からない感情がそこにあるかもしれない、と思うと言葉が出なかった。

何を言っても彼らの心に、寄り添える気がしなかったから。

実はここまでの文章は、1年以上前に保存した下書きだ。ここからは今の私が書いている。結局、私は彼らに寄り添うなんてことはできなかった。1人の友人は精神を病み、もう一人の友人とは後味の良くない形で決別した。

たぶん、私にできることなんて最初から無かった。逆に言えば、「何も言わず、何もせずに彼らの気持ちをただ聴く」ことが唯一のできることだった。

だが、当時の私は彼らの心を理解して何かをしてあげないといけない気がしていた。その結果、いろいろ余計な世話を焼き、余計なことを言っていた。
何かしないと、永遠に理解できないまま、彼らが遠くに行ってしまいそうな気がしていた。私が彼らの遠くに置かれるのが怖かった。

きっと彼らは、私が何もしなくても私を近くに置いてくれたのに。

彼らより私の方がよっぽど弱く、そして傲慢だった。
彼らの抱える悲しみや、心の複雑で柔らかい部分を理解できる、「なんとかできる」と思って平気で雑に手を伸ばした。それが彼ら自身だけの領域だと知らずに。

これ以上は何を書いても後の祭りというか、届かない懺悔は無意味なのでこの辺にしておこうと思う。

私の心も、あなたの心も、決して誰からも理解はされないかもしれないけど、それでいい。それがいい。理解し合えなくても、大事にし合うことができれば、美しい関係のままでいられるだろうから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?