「親ガチャ」というワードに対して思うこと

先日、Twitterで「親ガチャ」などというワードがトレンド入りしているのを目撃した。

僕も伊達に最近の若者としてネットに入り浸っていないので、そのワードの持つ大まかな意味はすぐに把握できた。

要するに「現在の自分の不遇も、大きな成功を収めている周囲の人々も、結局は経済的に豊かな家系に生まれたかどうかで殆どが決まっている。だから今の自分が惨めな思いをしているのは自分が才能にも努力にも機会にも恵まれなかった=即ち経済的に豊かな家系に生まれなかったからだ」という考えだ。

大正解だと思う。そりゃ経済的に豊かな家庭に生まれてすばらしい教育を受けた人間からは「親ガチャ」なんて凄まじく下品な言葉は出ないだろうよ。そんな言葉を使ってる時点で自分がロクな教育を受けていないと自供するようなものだ。

が、敢えて繰り返しこの言葉を使うがこの「親ガチャ」論、大正解だと思う。東大生、その他有名私大生の親が比較的高収入であるのは事実だ。だから教育を受けさせてあげられるし、様々な才能を伸ばすチャンスを子供に与えることができる。

だからといって努力は無価値ではないのもまた事実だ。貧困家庭からスター街道を駆け上り大きな名誉と富を手にした人もいる。が、そんな少数派を例に出して「だからお前ら努力が足りんのだ」という意見が極論、暴論なのは言うまでもない。

絶対的な格差は存在する。間違いなく。並の努力ではひっくり返らない格差は存在するのだ。

最近何かと話題のヤングケアラーと呼ばれる子供たちに対して、裕福な家庭で育ち、有名大学を卒業して有名企業に入社したサラリーマンが「人生は努力で切り開ける、がんばれ!」などと説いたとして、そういう子供たちにどう響くか、という話だ。

そんなことすら想像できないのであればあまりにもその人は現実が見えていないと言わざるを得ないだろう。

重要なのは…豊かに生きていくために重要なのは態度なのだと思う。

まず経済的に成功している、自分がうまくいっている側だと思っている人間はある程度自覚しておく必要がある。

自分は運がとても良かったのだと。

勿論そういった人たちの努力は否定しない。ただ、その努力を正当に評価し、伸ばしてくれる環境があったのもまた運の良さなのだ。世間には私やあなたより数倍努力をしても、半分以下のリターンしか得られなかったような人たちがザラにいるのだ。逆もまた然り。私たちの半分くらいの努力で倍以上儲けている人もいる。

経済的勝者が、今の立場を自分の努力の成果だと喧伝すればするほど敗者との分断は深まっていく。それは裏を返せば「貧乏なのは努力が足りないからだ」という言葉になるからだ。

本当にただただ運が悪かっただけの人だって沢山いる。

無自覚な努力の誇示は、そんな人たちにまで「努力不足の怠慢人間」という十字架を背負わせることになるのだ。

どうしようもなく存在する、そして決して消えることはない格差に対して、

「僕も君も運が良かった、あるいは悪かったね」

「もしかしたらここから努力して逆転できるかもしれないし、できないかもしれないね。」

「どちらの生き方を選んでもそれは尊重されるべき生き方なんだよ」

と、認められる世界がいい。

格差がなくなるに越したことはないが、恐らくそれは不可能だから。

経済的に豊かな人には「運が良かった」という謙虚さを、そうでない人には「運が悪かったけど、それでもこの生き方は強いられたわけじゃない」という自信が持てるような社会になるといいと思う。

そして願わくば、「親ガチャ」なんて親や運命を嘆いているようで、実は自分の人生を一番嘲っているような言葉を若者が吐かなくて済むような社会を、自分の周りだけでもいいから作れたらいいなぁ、とも思う。

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