発達障害という言葉のパブリックイメージについて

私は趣味で草野球をしているのだが、去年からそのチームにちょっと変わった選手が入団してきた。

その選手が入団してきた初日、彼はグラウンドの場所を間違えて30分以上遅刻してきた。初めてだしそんなこともあるよな、ちゃんとエスコートしてやらなかったこっちの手落ちだな、申し訳ないな、と私もみんなも口々にそう言い合った。

が、その彼、どうにも様子がおかしい。翌週も平気で同じグラウンドなのに電車を間違えて遅刻してきた。それを皮切りにこの一年での彼の「やらかし」を列挙していこうと思う。

・財布を紛失する
・スマホを紛失する
・電車の乗り降りがわからずに遅刻orそのまま来ない(複数回。たまにスマホの充電が切れて音信不通だったりする)
・「起きたらなんか知らない駅にいました」で遅刻orそのまま来ない(複数回)
・「この日試合だから早めに出欠確定させて下さい」の呼びかけに対して「行けたら行きます」とだけ返信し当日に来ない。

結論から言うと、私は彼のことを発達障害(ADHD)ではないかと疑っている、というかほぼ確信している。だらしないとか、そういう次元では説明がつかないほど遅刻や物を紛失したりすることが多い。しかも喋ると普通に好青年だし、一回一回反省の色は見えるのである。明らかにそれで生きにくそうにしている。

そして今日も彼は試合に「行けたら行く」で来なかった。私はチームの何人かの前で「アイツ、明らかに発達障害的なものを患ってる気がするんだよね。マジで病院とか受診を勧めたほうがいいんじゃないか?」と言ったら、とあるチームメイトから予想外の反応を喰らった。

「お前、チームメイトにそういう悪口は良くないぞ」

発達障害らしき行動が目立つ人に受診を勧めようか、という提言は悪口らしい。その発想こそ差別的な悪口じゃないか。「それ」は単なる障害であり、他人との違いでしかなくて、そこに良いも悪いもないだろうが。

本気で君は発達障害を「悪いこと」だと思っているのか?その上で私を「チームメイトの悪口を言うな」と断罪したのだろうか。だとすればあまりにも無知で傲慢なことだと思う。

脳の構造の違いから定型発達者が当たり前にできることが苦手、というだけのことを「悪いこと」など道徳的な問題にまで発展させて決めつけることなど誰ができるというのだろうか。

が、周囲に当事者がいない人間の「発達障害」という言葉のパブリックイメージなど、存外その程度なのかもしれない。だらしなかったり遅刻癖があったりする人間を馬鹿にする言葉、程度にしか思っていないのかもしれない。

だからこそ、彼には是非心療内科等を受診してみてほしい。
きっと診断が出ると思うから。そうして「何が苦手で」「チームの活動にはどんなリスクがあるか」「その対策をどうするか」を話し合う場を設けたい。

聞けば、彼は職場でもその特性が故に失敗して怒られたり、遅くまで残業をしたりする羽目になっているという。そんな彼が趣味である草野球の場でも同じように怒られて居場所を失ってしまうのは、同じ競技を愛する仲間としてとてつもなく悲しいことだ。

趣味の価値というのは日常の鬱憤からのささやかな開放であることに他ならない。その手段として草野球を、我々のチームを選んでくれた彼にとってもこのチームはそういう場であってほしい。だからこそ、我々が当たり前にできることをできない人を悪だとするチームにはしたくない。断罪ではなく対話、私にとって発達障害という言葉はそのきっかけとなる材料でしかない。

同じグラウンドに立ってプレーをする以上、どんな特性があろうと仲間なのだから。


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