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僕らはその大切さに気づくのが遅い鈍感な人間なんだ。「道」解説

「この世で役に立たないものはなにひとつない。この足下の石ですら大きな大きな意味があるんだから…」

【神の愛は信じぬ者にも及ぶ】という思いで作ったというフェリーニ監督。だからこそ、このセリフ【この世で役に立たないものは何ひとつない】は、心に響くのだろう。この映画でいう綱渡りの男が神を象徴しており実際にその愛はザンパノにまで影響を及ぼしました。

テーマは

「人間の本当の男と女のオリジナル。男は自分勝手で女は忠実。」「人間の持つ孤独。」

「自分の道(役割)」

「誰であれ必ず役に立っている(石ころ哲学)」

男は本当に自分勝手だとしみじみ感じた…

戦後の社会背景は描かれないが、戦後の映画であるためどこか戦争に関係したメッセージが伝わってくる。時間や人の命など取り戻す事のできない人生の悲劇を描いてるように思える。
そして人生の愛と哀しみ、人は残酷であるが愛が人を救うことを、感じさせてくれる。

音楽にも注目して頂きたい。実に素晴らしい。

ザンパノは「男」、ジェルソミーナは「女」、そして綱渡りの男は「神or天使」を象徴してる。
神を登場させた事でザンパノは死や罪、愛を知り、ジェルソミーナは自己価値に目覚め成長を遂げます。
淀川さんが綱渡りの男は神だと言っていましたが綱渡りで天使の羽をつけていたり石ころが何の役に立つのかわかったら俺は神だと言ったり、主人公2人の仲を縮めたりする事から天使を象徴してる可能性もあるなと思いました。

綱渡りの男が死んだ事で頭がおかしくなったジェルソミーナは故郷に帰すという言葉も通じず仕事もできない。ザンパノにとっては自分が生きていくためには捨てるしかなかった。そしてラスト気づかぬ内に心の支えになってたであろう彼女を本当に失った事に気づき急に孤独感に襲われるザンパノ。
このシーン女性はザンパノを自業自得だと思うかもしれませんが男はなぜか共感できる部分があるのです。男はいつだって大切さに気づくのが遅い鈍感な人間なのです。

『道』の物語構造における媒介性の機能を探ってみるならば、イル・マットの小石の話でも明らかなように、「小石」と「空の星」は多の中にある無益に見える同類なものとして語られていた。この二つは同様のメタファーがあてはめられているのだが、前者が簡単に手に触れることができるものなのに対して、後者は手の届かないものである。ジェルソミーナの死を知ったザンパノはラストシーンで、海に入ってから海辺に戻り座り込む。そして、空の星を見上げて何かに気付いたかのように泣く。それはまるで小石としての触れられるジェルソミーナを喪失し、空の星としての触れることのできないジェルソミーナの存在に気付いたかのようである。
 イル・マットは、ジェルソミーナがザンパノによって必要とされていることを教えた。どんな人間であっても何らかの役に立っているのだと。しかし逆説的ながら、そう教えるイル・マット自身が誰よりも孤独なのである。

ゆっくりと、カメラは一人夜の海辺に小さくなるザンパノを置き去りにし、後退し、上昇する。フィルムは海の側で始まり終わる。映画の構造は一つの循環の中にあるが、オープニングと結びは鋭い対照をなしている。最初に観客がザンパノに会う時は、太陽の光のもとで、海を見ながら跪くジェルソミーナを見ながら横柄にいばって力強く立っているが、ザンパノと別れるラストシーンでは、海の前でひれ伏して、もはや力を誇ることもなく、自らの過ちに気付き終わっていく。さらに映画中盤では海辺にてジェルソミーナとザンパノの距離が一気に縮まる。この映画での海は大きな転機を表しているのだろう。

この物語を、ずっと側で献身的に付き添ってくれたジェルソミーナを愛せなかったことに絶望するヒューマニズムの喪失の物語と受け取るべきだろう。失って気付く愛などによる孤独ではなく、愛を持つことのできない「獣」による人間性の喪失である。愛を持つことが出来ず変わることのできない自分にただ絶望するしかない孤独な男の物語にする。人間がそう簡単に変わることが出来ないことは誰もが経験的に知っているだろう。だからこそ、この物語のザンパノの涙は、僕の心を打つのだ。

大好きな映画「大人は判ってくれない」までは及ばないものの似たような感動を得られた。なぜだろうと考えてみると今作はそばにいたものを捨てたことによる後悔、「大人は・・」は捨てられた事による悲しみとこれからの希望を表してるという意味で対照的なものが感じられたのだと思った。

ーー雨のシーンがないのに雨にまつわる二つの台詞があるのはなぜ?ーー

「あさっては雨」「雨の日に聞いた歌よ」と言うジェルソミーナ。

実は雨のシーンはあったもののカットされたらしい。

実際に明後日は雨というのは削られたシーンでは当たっている。海の近くで育っているため機構に詳しいのだ。

しかしなぜこの雨にまつわるセリフをカットしなかったのか?「雨の日に聞いた歌よ」というのがなければ綱渡りの男から教えてもらった歌ということで絆が深くなると思ったのだが何か意味があるに違いない。

「あさっては雨」に関してはジェルソミーナが頭の弱い子と表すための可能性が高い

ーーフェリーニは以下のようにして着想を得たーー

これはフェリーに自身の証言である「僕が『青春群像』を撮影している最中に、トゥリオ(共に道を書いた脚本家)がトリノの家族に会いに出かけたことがあった。当時は、ローマと北部の間に自動車道路などなかったので、山道を進んで行かなければならなかった。くねくねと曲がりくねった道の一つで、一人の男がカレッタ(防水布に包まれた荷車の一種)を引っぱっている姿が見えた・・・。小柄な女性が後ろから荷車を押していた。ローマにもどると、トゥリオは自分が見たことや、路上での彼らのつらい生活を物語にしたいという願望を僕に語った。「次の映画にうってつけのシナリオになるよ」と彼は言った。僕も同じようなストーリーを夢想していたのだが、決定的な違いがあった。僕のストーリーは、旅回りの小さなサーカス団とジェルソミーナという名前の頭の弱い少女が中心のストーリーだった。そこで僕たちは、僕のみすぼらしいサーカスの人々と、トゥリオの火をおこして自炊しながら山々を放浪する人々を一つにしたのだ」

ーー田舎の結婚式で難病の子供の部屋に連れて行かれたシーンーー

この箇所は、フェリーニ自身がすでに解説している

「ぼくがリミニの近くの小さな村ガンベットラで、おばあさんの家にいたころ、百姓の子どもたちといっしょに遠征して、丘の向こう側の、昔僧院だった農場に入ってみたことがある。不可思議な部屋や通路や地下室のある奇想天外な建物を探っていくうちに、僕たちはとある屋根裏部屋で、よく熟するように拡げられたリンゴとトウモロコシの袋の間に、寝床のようなものをみつけた。それはベッドですらなく、粗末な床にすぎなかったが、その上に白痴の子どもがいた。働かない者にたいする、したがって異常に生まれついた者にたいするあの防御本能から、百姓たちは、おそらく彼が餓死することを希望しつつ、子供をほとんど打ち棄てていたのである。このことはぼくにショックを与え、強い印象をのこしたが、ぼくはこれを『道』に取りいれた。・・・ぼくがこれを入れたのは、たぶんジェルソミーナにしかと孤独を意識させたかったからだ。農場ではお祭りがある。ジェルソミーナは結局ひとといっしょにいて、歌や皆の陽気な楽しみに加わるのが好きな女だから、病人を見にゆこうと叫ぶ子どもたちにひっぱられてついて行く。他人から離れて、苦しんでいる―したがってきわめて神秘的な次元にある―この子どもの出現。ぼくの考えでは、これはすぐそこに立ちあらわれて、まじまじと彼を眺めるジェルソミーナのクローズアップにつなぐことによって、ジェルソミーナの孤独というものをかなり強力に暗示しうると思ったのだ」

ちなみにジェルソミーナ役の女優はフェリーニの実際の妻です。

疑問点としてなぜザンパノはジェルソミーナを女房と呼ぶのでしょうか?

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