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誰かが喜ぶ顔に、導かれている


人生で「働く人」について考えた一番古い記憶は、小学6年生の頃のものだ。

6年生の運動会で腰を痛めた私は、整形外科にしばらくマメに通っていて、そこの先生となんでも無い話をしながら、少しずつ腰を治していく治療をしていた。
とはいえ重症でもなかったので、痛みは数週間もするとすっかり治る。2週間後は修学旅行だ。

「先生、ありがとうございました。これで修学旅行も安心して行けます」

そうは言ったけれど、私自身ひねくれた子供だったのでそこまで修学旅行が楽しみだったわけでもなく、ただ、電気治療をしながら修学旅行に持っていく服を今週買いに行こうと思い出していたから言ったまでだった。

しかし、先生はそれを聞いた途端に目を輝かせて、「あら、そうだったの?!良かったねえ!間に合ってよかったよかった」と嬉しそう。「先生、私の5倍くらい嬉しそうやな」と私は表情を見ながらぼおっと思った。

そして、”働く人”は、仕事を通して触れた人が喜ぶと、嬉しくなるんだなあと、先生のニコニコした横顔を見ていた。

なんて健気なんだろう、とも思った。

今振り返ってみると、やっぱりひねくれた子供である。


それからずっと、相手が仕事で接してくれている人には、軽率に感謝を伝えるようにしている。せっかくならばと、あの頃のように嘘はつかずに、自分が感じた、相手の仕事の素晴らしい部分を、忘れないうちに言葉にして伝えるようにしているのだ。

そうすると、多くの人は照れたように笑ってくれる。「大したことじゃないですよ」と言ったりする。だけど誰一人として嬉しそうじゃない人はいなかった。むしろやっぱり私なんかより何倍も嬉しそうにする人が多い。自分の仕事へのこだわりを語ってくれる人もいた。

やはり、誰かの喜ぶ姿に幸せを感じる”働く人”は、健気で、美しい。

小学6年生の頃からずっと、その思いは変わらない。

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僕のした単純作業が この世界を回り回って
まだ出会ったこともない人の 笑い声を作っていく

働くってなんだろう という問いかけを聞いて、Mr.Childrenの「彩り」のこの一節を思い出す人も多いのではないだろうか。

まさに、仕事とは、自分の小さなてしごとが、誰かの手に届いて、喜んでもらうことを祈る営みである。自分が働くようになってより一層思うようになった。

何度もエッセイで書いているが、私は元々就活生の頃、出版社に入りたいと思っていた。けれど結局IT企業に入ろうと気持を改めたのは、「私は本がつくりたいのではなく、『誰かにとある情報をオススメして、その人の人生に新しい選択肢が現れるのを見たい』」のだと気づいたからだ。

私にとってもつまり、就職活動は「自分はどのように誰かを喜ばせて生きていくか」の選択をする活動だったと言える。

私は今、大きく2つの仕事をしている。会社員としては、WEBアプリ開発のディレクターを経て、今はサービスのマーケティングを考えるのが仕事だ。日々、”暮らしの中で、きっとこうやってサービス使ってもらえたら生活はもっと豊かになる”ということを、「伝われー!」という願いを込めながら様々な作戦を練っている。副業ではこんなふうに、誰かが言いたかった何かを、未熟ながら整理して代わりに言葉にしてみることで、誰かに新しい発見があったら良いなと思いながら文章を練り上げている。

双方ともに、SNSなんかで楽しそうな感想を見ることが、何よりも嬉しい。手の中で企画を練り上げる中で笑顔になっていた、ずっと出会いたかった誰かに出会うために、日々頭を悩ませている。働く大人を穿った目で見ていたひねくれた子供もまた、同様の”働く人”になれたと言えよう。

Mr.Childrenの「彩り」という曲は、さきほどの歌詞に、こう続いていく。

そんな些細な生き甲斐が 日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に 少ないけど 赤 黄色 緑

そう、誰かが笑ってくれた時、笑い声によって、生き甲斐をもらっているのは、こちらの方なのだ。

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私の父は事業経営をしていて、朝5時からほぼ365日働いているのだが、ケロっと「還暦とか無視しておじいちゃんになるまで働きたい」と言う人だ。

今回のエッセイを書くにあたって、単純に「どうして父はそこまで働きたいのか」を疑問に思い、質問してみた。

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仕事人としての私達は、”誰かの「嬉しい」”を求めて、壮大な冒険をしているのかもしれない。

様々な形の、”誰かの「嬉しい」”に触れながら、自分が人生をかけて作っていきたい”誰かの「嬉しい」”を見つけていく。

もっと”誰かの「嬉しい」”をつくるために、自分の力を拡張したくて奔走する。厳しい困難だって、いつか越えられる瞬間を夢見て走り抜けられたりする。

ときに、自分よりもより”誰かの「嬉しい」”に真摯に向き合っている人に出会って、心が震えたりする。

時々、とびきりの”誰かの「嬉しい」”に出会えて、世界が輝いて見えたりもする。

”誰かの「嬉しい」”に導かれて、自分の意志だけではたどり着けなかったような遠い場所にたどり着いたりもする。そんな小さくて壮大な冒険を、私達は「仕事」と呼んで生きているのかもしれない。

誰かが喜ぶ顔が見たくて、悩んだり、嬉しくなったり、時に涙が出るほど悲しくなったりする、冒険の主人公。その横顔は、やっぱり、健気で美しい。

仕事を頑張る人はみな、誰かの喜びを繰り返し発電していこうとする、冒険物語の主人公なのだ。

小学生の頃からずっと憧れてきた横顔に少しでも近づきたくて、私も例に漏れず、今日も小さな大スペクタクルストーリーの主人公として、目の前の難題と向き合っている。

このnoteは、Panasonic×noteの「はたらくってなんだろう」コンテストの参考作品として、書かせていただきました。

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