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『きのう何食べた?』を読んで、私たちは食卓の夢を見る

“食卓” というものがすきだ。

「お酒が好きというよりも、みんなでお酒を飲む場が好きなんです」という人に何度か出会ったことがあるが、それでいうと私は、誰かがつくったご飯を食べる場を愛している。

ほわほわ立ち上る湯気、皿と調和する料理の色味、美味しそうに見えようと張り切って盛り付けられている食材たち。それらはどれも、料理の作り手の思いやりからできている。

食卓の愉しみを教えてくれる『きのう何食べた?』

20代中盤まではもっぱら外食派で、365日ほとんど外食していたが、コロナ禍に伴う外出自粛などの理由もあり、じわじわと年々自炊する回数も増えている。そんな自炊初心者に、自分で作る “食卓”の愉しみを教えてくれたのが『きのう何食べた?』という作品だった。

『きのう何食べた?』という漫画は、ドラマ化もしたし映画化もした漫画なので、きっとこの物語が好きな人は多いと思う。しかし、案外この漫画を「好きな理由」は人によって異なるのではないかと思っている。

ドラマが放送された際には、主人公のシロさんとケンジが男性で同棲していることから、とにかく同性カップルの物語であることが話題になった。もちろん同性カップルの恋愛物語が好きな人もいるだろうが、この漫画の中には恋愛ものにありがちないわゆるキスシーンのようなものもない。

そのため、あまりにもこの同性カップルという設定が取り上げられすぎることに違和感をおぼえることもある。性別にとらわれず、ただただシロさんとケンジという主人公の二人の仲の良い姿が好きな人もいるのではないだろうか。

さらに、どちらかというと恋愛漫画が苦手な私でさえも惹きつける魅力がこの漫画にはある。私はもはや彼らの関係性が新時代の家族像だとか、そういうことでさえ割とどうでもいい。私は何より、この作品の「食卓の素晴らしさを感じさせてくれる」ところが好きなのだ。

見直したい、「食事を準備する」という営みの尊さ

自炊をしはじめてわかったことだが、「食事を準備する」という行為はものすごく尊い。人間的な——いかにも感情があり社会の中で生きるイキモノである私たちの文化だなという感じがする。

それはもうほとんどギフトみたいなものなのだ。

例えば、漫画のいたるところで、料理好きのシロさんが「ケンジが(仕事から)帰ってくる前に晩御飯をつくっておこう」としたり、「今日はあいつの好きそうなメニューにしてやるか(これは時にシロさんがケンジを怒らせた時などに発動する)」と言ったりする表現が出てくる。

プレゼント選びについてしばしば「相手のことを考えながらモノを選ぶのが楽しいよね」とか、「私のことを考えてくれたモノならなんでもいいよ」とか言ったりするものだが、夕飯づくりというのは、これを日常的に行う営みだ。プレゼントを準備しようとする時と同じように、私たちが食事を準備する時、相手が嬉しくなることを目指して工夫を凝らす。

さらにそこには、長年一緒にいるからこそ知っている、相手の好みの味付けや献立への理解が詰まっている。加えて、日常的に食事係を担ってくれている人は、なんと日頃の食生活を鑑みて、健康を祈りながら「今日はヘルシーな食事が良いかな」なんて調整してくれてもいる。帰宅時間を聞くのは、できるだけお腹をすかせて待たせる時間をつくらないためだろう。

ここまで考えてみるだけでも、日常的に誰かと食卓をつくることが、あまりにも愛に溢れた営みだということがわかる。

さらに、日本の食卓といえば “旬” と “行事” の多さが特徴だ。「クリスマス」とか「正月」とか「七草粥」とか「土用の丑の日」とか、食とともにある季節の行事も多いし、やれ「新じゃがの季節だ」「サンマがスーパーに並び始めた」「焼き芋を食べよう」と、行事よりも更に細かい “旬” という概念が一年の中にびっしり存在している。

季節とにらめっこしながら、私たちは食卓に皿を並べているのである。

そういった季節の食材は、うまい。ただシンプルに美味しくて、食卓に出てくると「わあ、四季のある日本に生きててよかった」とさえ思う。だからこそ、それを共有しようと食事を作る行為も、ものすごく美しい。

経験上、もちろん自分が食べたいだけのときもあるのだが——、「旬の野菜で今夜のご飯を食べよう」と考える時、そこには日常の中にある季節のきらめきを、自然の甘美さを、過ぎていく時間の中の美しい一瞬を、食事をともにする人と共有したいという気持ちがあるように思うのだ。

「食卓とはコミュニケーションだ」。シロさんとケンジが食卓を囲むのを見ているとそう思う。外食でも、自宅での食事でも、誰かが用意してくれた食事を食べる時、私たちは確かに作り手の思いやりを受け取っている。

私たちは日々、誰かに思いを馳せながら食事を作り、美味しさを共有し、毎日を繰り返している。それだけの営みの中に、どれだけの愛が詰まっているのかをこの漫画を読んでいると感じることができる。

物語の中の彼らともに日常を生きていく

さらに、『きのう何食べた?』という漫画の魅力は “長く続いている” というところにもある。

この漫画は2007年からすでに15年以上も続いている。多くの漫画で主人公は永遠の17歳だったり、永遠の小学生だったりするが、『きのう何食べた?』では、登場人物たちがしっかり歳を取る。

歳を取ることで変わるのは見た目だけではない。少しずつ時を経るごとに二人の関係性もまた、変わっていく。

実はケンジはいつの間にか食レポが詳細になり上手になっていたりする。これは、料理が好きな人と長く一緒にいるからこそだ。反対に、常に明るくおおらかなケンジといるシロさんは、昔は少し神経質なキャラクターだったが今やだいぶ性格がまるくなっている。

それに、変わっているのは二人の関係性だけじゃない。シロさんは疎遠になっていたお母さんとご飯を作るようになったり、初期はシロさんとケンジの食卓が多かったところから後半は友達カップルや夫婦と季節行事を一緒に過ごすようになっていたりする。

この「食」を介するコミュニケーションが豊かな国で、食卓をともにする人がたくさんいるということは、日常を活気づけてくれる。また、気がつけば孤独にさいなまれる現代で、「恋人」とか「家族」といった肩書を超えて、食を通して深まる名前のない関係性を育めることは、素晴らしい。食とともにある人間関係の懐の深さを、私はこの漫画を通して再確認することが多々ある。

私もこの漫画を読みながら歳を取り、同棲をはじめたり解消したり、叔母とカナダで同居して日本の食文化の豊かさに感動したり、様々な変化があった。シロさんが少しずつ丸くなっているとか、ケンジの新しい髪型が好きとか、そんなことも、まるで知り合いの近況みたいに知っている。

それらは、長く、ゆっくり、まるで隣のマンションに住んでいる人の話のようなスピードで、漫画が続いているからこそだ。

最近は、「たくさんの人が次々と傷つきながら」「ハイスピードで」進んでいく「非日常」な漫画が人気だ。確かに、毎週新しいエピソードが更新されるたびにSNSのタイムラインがざわつくような、常に先の読めないストーリーは面白い。

しかし同時に、「日常」を描き、時折近況を知りながら長く付き合っていくような「ともに生きていく」作品も漫画の楽しみ方の一つだ。

さて、今日は何をつくろうか。

そんな気持ちになる時、ここ数年は何度も『きのう何食べた?』のことを思い出す。

この漫画が教えてくれた通り、その愛に溢れた想像の先には、日常の彩りが生まれる瞬間を誰かと共有する豊かな時間が待っている。

こちらの記事は過去に『Article』という媒体で公開されていたものを転載した文章です。


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