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一生懸命になることが虚しくなったら、私は漫画『ちはやふる』を読む

「一生懸命」って流行ってないなあ、と思う。

だけどそれを別に暑苦しく責め立てたりするようなことはしない。気持ちはわかる。

一生懸命になったって、報われないことが多い時代だ。 見渡せば、一生懸命になってくたびれてる奴とか、一生懸命な人間を冷遇する世の中とか、一生懸命な日々を一蹴するような信じられないニュースばかり目につく。

一生懸命の行き場のない時代なのかもしれない。私達の「一生懸命」を捧げて積み重ねてきたはずの社会システムでさえ、今や疑わしい。「一生懸命になる意味って何?」って聞かれると、私だって答えられない。

だけど、それでも、一生懸命の意味を信じたくなる時がある。
自分の一生懸命を——もがきながら一生懸命になる自分を、肯定したい時がある。

そんな時私は、漫画『ちはやふる』のページを開く。

たくさんの「一生懸命」が詰まっている作品


『ちはやふる』は一言で説明すると、主人公の高校生・千早が、競技かるたの日本一「クイーン戦」での勝利を目指す物語だ。

<紹介>
まだ“情熱”って言葉さえ知らない、小学校6年生の千早。そんな彼女が出会ったのは、福井からやってきた転校生・新。大人しくて無口な新だったが、彼には意外な特技があった。それは、小倉百人一首競技かるた。千早は、誰よりも速く誰よりも夢中に札を払う新の姿に衝撃を受ける。しかし、そんな新を釘付けにしたのは千早のずば抜けた「才能」だった……。まぶしいほどに一途な思いが交差する青春ストーリー「ちはやふる」は、2016年に実写映画化!!!

引用:https://be-love.jp/c/chihaya.html

単行本は2022年2月時点で累計2700万部(電子版含む)以上売れており、広瀬すずさん主演で映画化もされた。アニメ化もされたことをきっかけに、海外で「かるたブーム」を起こしたこともニュースになった。大ヒット漫画である。

大ヒット漫画の魅力の1つは、長く続くことではないだろうか。というのも、そもそも漫画の良いところは、時間軸をのびのびと描けるところだと私は思っている。ドラマなら基本的に1時間×10回、映画なら2~3時間、他のジャンルのフィクションは、ある程度時間制限がある。最近の海外ドラマや映画は複数シーズンにまたがる話を展開していたり、昔の名作の続編が作られたりすることも珍しくなくなったけれど、人間が演じている以上、キャストも年を取るから、漫画みたいに数年をものすごく濃厚に描くことは漫画よりも難しい。

一方で、だからこそ漫画は「続けること」にシビアなんだろうとも思う。人気が出なければすぐに終わってしまう。だからといって反対に、一度ヒットした漫画を無理して結末を先延ばしするのは良くないけれど、作者の末次由紀さんは、漫画が評価されるにつれて「思い通りのペースで描いて良いんだ」と考え、自由に漫画を描くようになったと振り返っている。

(最初どれくらいまでの長さを想定して書き始めたかという質問に対して)千早たちが団体戦で初めて全国大会に挑む4巻くらいまでですね。かるたマンガを読みたい人はおそらく当時どこにもいなかったと思うので(笑)、その先を描けるほど人気が出てくれるかどうかわからなくて。(中略)でもちょうど4巻が発売された2009年に、第2回マンガ大賞をいただいて。自分以外の誰かに評価していただいたことで、「どうやら、そう駆け足でいかなくてもいいらしい」って思えたんです。

引用:https://natalie.mu/comic/pp/chihayafuru04

そして私にとって、長期連載漫画の好きなところは、とにかくキャラクターが濃厚に描かれることだ。それも『ちはやふる』では、主人公以外のドラマもたっぷりとある。千早と同じ高校に通う「かるた部」の面々だけではなく、クイーンや名人、他校の顧問や次世代を担うであろう若い世代まで、幅広い世代が競技かるたとまっすぐ向き合う姿に出会うことができる。

大きな大会を描くだけでなく、地方大会とかも省かないで、かるたをやっている子たちが出場する大会にちゃんと出させてあげたいなと。そこで1人ひとりが成長していくっていう過程を見せていけたらと考えるようになりました。でもまさか、こんなに描いてあげたい人数が増えるなんて、こんなに幅広い年代の人を描くことになるなんて、思いもしなかったです。最初のほうは当然主人公たちのことを描くんだろうと思っていたけど、描いていくうちにだんだん、その周辺の人たちも大事なんだ、そっちのほうも大事にしたい、っていうことが増えていって。すごく厚みが出たなと。

引用:https://natalie.mu/comic/pp/chihayafuru04

「競技かるた」を巡る青春を描いた『ちはやふる』という作品の中では、その “青春” を、あらゆる世代の、あらゆる立場の人が駆け抜ける。

つまり、物語の中に、とにかく色んな人の「一生懸命」が詰まっているのである。

「一生懸命がくれるもの」を彼らのうちの“誰か”が教えてくれる

物語は、主人公の千早、幼馴染の新と太一を中心に巡る。

主人公の千早は、”感じ” に秀でた少女として、物語冒頭から描かれる。 “感じ” とは、競技かるたにおいて、百人一首の読み手の読みを聞き分ける能力のことだ。 “耳が良い” というとわかりやすいかもしれない。耳が良いから、些細な音でも聞こえるし聞き分けられる。だから、他の人よりも、正しい札に手が伸びる。千早は突出した1つの才能を持つ天才としてかるたを始める。主人公らしい “カリスマ性” のあるキャラクターだ。

新は、千早にかるたを始めるきっかけを与えた人物で、祖父が競技かるたの名人(クイーンの男性版)という競技かるた界のエリート。太一は、スポーツ万能頭脳明晰おまけにイケメンだが、千早の行動をきっかけにかるたに真剣に取り組み、天才たちに努力で向き合っていくキャラクターである。

尖った才能、孤高の天才、才能と向き合う努力。

三者三様の彼らが「競技かるた」という道を歩んでいく。

それだけではない。私たちが人生のどこかで感じたことがある葛藤を抱いている子たちにもたくさん出会える。

最初から叶わないとわかっている恋を追いかける子もいる。若い世代を教えながら、自らの中にある「頂にもう一度立ちたい」という思いに悶える人もいる。圧倒的な才能という荒野で、葛藤する人もいる。才能に囲まれて、自分の役割を見つける子もいる。

その誰もが、懸命に札を追いかけている。

一生懸命が叶う人もいるし、一度も叶わない人もいる。
才能がある苦しみも、才能が無い苦しみもある。

それでも誰もが、一生懸命競技かるたに取り組む日々を、愛しく思っている。

『ちはやふる』を読んでいると、一生懸命駆け抜けて辿り着いた場所がどこであったとしても、一生懸命をやり抜いた彼らに対して、こんな素敵な景色を見せてくれて「ありがとう」と言いたくなる。

私たちは、あらゆる立場や思いで「一生懸命」をやっている。

だからこそ、様々なタイミングで、様々な苦い気持ちを抱えて、『ちはやふる』にすがるように何度も読んできたけれど、「ありがとう」と言いたくなるその相手は、ページをめくる、その時々によって違う。

一生懸命の意味は、辿り着いた場所が教えてくれるんじゃない

自分の「一生懸命」にどんなに虚しくなったときも、漫画の中の彼らはいつもそんな自分に力の限り「一生懸命」でぶつかってくれる。

一生懸命になっていいんだよ、一生懸命なのはあなただけじゃないよ、と言ってくれる。

「一生懸命の意味ってなんだろう?」

そんなこと、一言で語れるもんか。
私の一生懸命の意味は、一言で語れるほど、単純でも薄っぺらくもない。

一言で語れなくても、一生懸命の意味は確かにある。
一生懸命はこれからの糧になるような景色に出会わせてくれる。
一生懸命が詰まった日々は、愛おしい。

一生懸命の果てに辿り着く場所に至るまでの、きらきらしたその景色や一生懸命の重みを、『ちはやふる』はなぞってくれる。

だからこれからも、私は『ちはやふる』のページをめくるだろう。

「一生懸命」の美しさを思い出すために。
「一生懸命」がくれるものを教えてくれる彼らに「ありがとう」を言うために。

そして、彼らに「ありがとう」と言えることに気づくことで、一生懸命を真面目にやっている自分にも、「ありがとう」と、言ってあげるために。

こちらの記事は過去に『Article』という媒体で公開されていたものを転載した文章です。


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