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SNSで編集しやすいように生きる人生は嫌

バンクーバーに滞在している間、決めていたことがある。それは、雑多な日記を書く以外に、リアルタイムにSNSで滞在中の様子を発信しないようにすることだ。

それはどうしてか?

理由は、SNSにすぐに発信することが習慣になるだけで、インプットの方向性が変わってしまうからである。

たとえSNSを仕事にしていなくても、 "人に見られる"  "誰かに「いいね」をはじめとする反応をもらえる場に晒す" ことを意識するだけで、インプットは変わってくる。

「SNSのフォロワーはこういうの好きそう」「こっちの方がいいねがつきそう」「この体験Twitterに書くならどう表現するだろうか」「この話、あとで記事にできそう」

そういうことを考えながら、映画やグルメや漫画や余暇を楽しむ時、私はいつも「吐き出すために食べている」と思う。アウトプットに方向づけられたインプットだと思う。そういった雑念をいつからか「ノイズだなあ」と感じるようになった。

安藤美冬さんの「つながらない練習」という本に、SNSをやめたことのメリットとして書かれた一文がある。

「何をどう投稿しよう」と気負うことがない。自分は自分、他人は他人というごく当たり前の事実に立ち返り、マイペースで生きられるようになる。大切な人との会話に集中し、旅をしている最中は思い切り楽しむ。日常の景色の見え方が変わる。たとえば通勤時間にも、空を眺めたり、草木や鼻の美しさに感動したりする感性を取り戻せる。

安藤美冬『つながらない練習』

バンクーバーから帰ってきて、改めて自分の判断は正しかったと感じる。140文字の制限や、起承転結といった、枠組みを意識しないインプットは、私の感受性を自由にした。ばらばらの言葉たちも、言葉にならない思いも、私の中であふれた。

さらに、時間を経ていくにつれて、発酵していく感情も沢山あった。その瞬間に安易に決めきらないからこそ、ピュアなままで、自分が「ほんとうのこと」だと思える気持ちに出会えた。これから数年かけて結晶化していく言葉もあるんだろうなと予感している。

旅行に行かなくても、私たちは話題のトピックを見つけると「自分もなにかつぶやかなきゃ」と考えたりする。映画を見たら「感想を言葉にしなきゃ」と焦ったりする。

今や、個人が日常を発信する場所は沢山ある。だけど私たちは別に、発信するために生きてるわけではない。言葉にするために、何かを消費しているわけじゃない。

言葉は、感情や事実を、場所や時間を超えて持ち運びやすくするためのツールで、物事を記録するための唯一の方法でもない。

そもそも、私は時々フィクションを書いたりもするけれど、すべての感情を直接的な言葉だけでは表せないからこそ、小説があり、映画があり、その他の表現がある。「この作品はこういうことを言いたい」と100%言葉にできるなら、そのまま言葉にしているのだ。

もちろん、発信は楽しいし、発信によってもっとインプットも楽しくなる。だけど、主従が逆になることには注意しなければいけない。

言葉に出来ないものは言葉に出来ないままで。何の枠にも縛られず、世界を見よう。

そこには、140文字にも、50音にも、「いいね!」という感情にも収まらない鮮やかで曖昧で美しい世界が広がっている。

感性がSNSに方向づけられる

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