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私達の「ご自愛力」が今、試されている。 #私のご自愛


“ご自愛”という言葉が流行りだしたのは、ビフォアコロナ時代のラストイヤー、2019年だった。大きなきっかけとなったのが友人のnoteだったので、とても印象深く記憶している。

2019年。あの頃、私たちは、自らに無理やりアドレナリンを打ち続けるようなアーバンライフに疲れはじめていたように思う。誰かの言葉に傷ついた時には高級レストランで自分をもてなし、体力の限界を振り切ってデスクに向かった週末には疲れ切った肩や腰をエステで癒す。快楽と刺激物をオーバードーズして、生きづらい毎日から目を逸していた。

それでもふとした時に、無視していた濃厚な悲しみが襲ってくる。アップダウンの激しい毎日に息切れした頃、現れたのがこの「ご自愛」という言葉だった。

時には、誰かの都合より自分の体調を優先して、ゆっくり休む。誰かの好みやトレンドではなく、自分の好みに溢れたモノを消費する。自分の心や、身体をやさしくいたわるための、セロトニンアイテムを手に入れる。

私たちは、ご自愛によって、誰かに流され続ける渦の中からぬけ出して一日を過ごせるようになったのだ。自分にこびりついた誰かからの押しつけを剥がして物事を選べるようになった。ご自愛は私たちに大切なことを教えてくれたから、当然、世の中でも一気にその言葉が広まった。雑誌でもテレビでも、「ご自愛」という言葉を見かけるようになっていった。

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そして、私たちが自分を愛すことを学んだ次の年の秋、"コロナ禍"はやってきた。

新たな苦しみはあれど、付き合いの飲み会はなくなったし、終電もなくなって家のベッドで15分仮眠を取ることもできるようになった、聞きたくない言葉に対しては、イヤホンをこっそり外せば良い。「余所行きの私でいるべき場面が減った」のだ。つまりそれは、他人のための自分を用意する機会が少なくなったということである。正直わたしは、随分生きやすくなった。というか、他人との共同生活のために自分がすり減っていくような、あの水曜日の深夜の感覚と、随分疎遠になったように思う。

けれど代わりに、自分を見失うような感覚を覚えることも増えた。改めて、自分とは、"他人との境界線"によって輪郭が描かれていたのだと噛みしめる。世の中の刺激物のほとんどは自宅にはなく、刺激される機会が減るうちに、自分のどこに痛覚があるのかわからなくなってきた。

仮眠したいときに数分仮眠できて、脱ぎたい時に服を脱げて、泣きたい時に泣けて、怒りたい時に大声も出せる。上半身は一応毛玉のないトレーナーを着てはいるものの、下半身はパジャマのまま、ビデオも音声もオフしてビデオ会議に参加しながら思う。

他人との関わりがこんなに遠い世界で、「自分を大事にする」とはなんだろう?

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"セルフネグレクト"という言葉を、友人が書いたコラムで知った。

「セルフネグレクト」という言葉がある。風呂に入らない、ゴミを溜め込む、食事をとらないなど「一人の人として生活において当然行うべき行為を行わず、自己の心身の安全や健康が脅かされる状態に陥ること」を指すらしい。大きな原因のひとつが「社会からの孤立」だと言われている。

高齢者を扱う文脈でよく使われる言葉だが、社会との接触を疎まれるこの世界で、この"セルフネグレクト"にやんわり陥っている若い世代も多いのではないだろうか。

ある時わたしも気づいた。夜遅くまでドラマを見ていたら面倒になってお風呂に入らないまま、次の朝伸び切った髪と中学生の時に買ったジャージで外に出ようとしている時だった。

「好き勝手できて心地いい。だけどこの毎日は、どこにいくんだろう?」

ファンデーションをサボり、アイメイクをサボり、ヘアセットをサボるうちに、美容室に半年もいかなくなってしまった。自分の毎日を演出するよりも、身体がラクな服を選び続けていたら、10kg太ってしまった。ゆるやかに、しかしすっかり、自分を手入れする気持ちが抜け落ちてしまったのだ。

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2021年。ウィズコロナ2年目の春。そんな堕落した心と身体を引き上げてくれたのもまた、「ご自愛」という言葉だった。

3月、私は半年ぶりに髪を切った。管理が面倒なショートカット。だけどとびきり気に入っている。髪を切った帰り道、"なりたかった私に見た目が追いついた"、"私ってやっぱり最高"と思った。久しぶりだった。そんな一瞬を追いかけて、東京に来たはずだったのに。

美容師さんと、「髪がどんどん乱れていくと、何もかも少しずつ、どうでもよくなりますからね」という話をした。そう、私は別に、半年切らない髪型を好き好んでやっていたわけではない。そんな自分が鏡に映るたびに、だらしないとおもっていた。少し前までの自分の姿は、ただ、”どうでもよくなっていた”だけだったのである。

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こんな時だからこそ実は、私たちは「ご自愛力」を試されているのではないだろうか。

他人が見ていなくても、自分のために自分を整える力。面倒でも自分に優しくする力。自分の好きなものを見失わない力。私たちはただラクをしたくて、「ご自愛」をはじめたわけじゃなかったはずだ。自分をもっと愛するために、自分を愛していることを再確認するために、自分への愛を惜しまないために、この言葉を使っていたはずである。

この春、私は髪も切ったし、自分がときめく洋服も買った。最近は、ストレッチと筋トレも復活させている。自分を愛せる見た目に戻すためでもあるし、単純に健康に暮らし続けるために運動が必要だと感じているためでもある。

2019年に狂乱の渦の中で手にとった"ご自愛"は、自分を愛するアクションをとらせることで、私たちに健全な毎日と健やかな精神を与えてくれた。そしてそれが、ヘルシーな自己肯定感につながっていたはずだ。決してそれは、他人の目によって律していた自分から逃げ出す”怠惰”だったはずではない。

今こそ、誰もいない小さなワンルームで、”ご自愛”活動が必要なのではないだろうか。たとえ今はそれが、リラックスではなく、自分を引き締め直す作業だったとしても。

コロナとかいう、見えない敵に私の大好きな日常を邪魔されている場合ではないのである。自分のいる場所で、自分のために自分を大事にする毎日を、しつこく手放さずに日常にしていこう。

そうすることで、他人と、そして外部要因に負けずに、自分を大事にする、自分が望む未来を選び取っていきたい。

こちらの文章は #ご自愛ブラhttps://www.makuake.com/project/tigerlily/ )のPRとして #私のご自愛 をテーマに書いた文章です。


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