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それ、私が作りました。 〜AIの敗北〜

私の危機感が足りないのか、最近矢鱈にAIという言葉が乱暴な形で氾濫しているように感じる。科学技術や通信技術ということならば、PHSやケータイ、Windows95やiPhoneの登場をリアルタイムに目撃してきた世代からすると、確かにAIは「なんとなくすごいけど、急に世の中が激変したりなどしないだろう」と高をくくっているようなところがあるのかもしれない。ある意味で、醒めている、ということなのだ。

確かにこの四半世紀で、我々の生活は随分と変わった。25年前では、リモートワークなど考える由もなかったし、そうであれば、ネットビジネスや副業ブームなども起こり得なかっただろう。25年前にコロナウイルスが猛威を振るっていれば、どのような事態になっていたのか。どうも、今より被害が軽微だったという想像はし難い。
一方で、社会の害悪のバリエーションも増えたわけで、そうした意味で、間違いなく生活、およびそれを取り巻くスタイルは大きく様変わりしたと言えるだろう。

しかし、である。では、この急激な技術革新で、人間の本質が大きく変わったか、といえば、そういう気はあまりしないのだ。器に応じて中身の形は変わったが、その質や素材は変わっていないということである。
人間は太古以来、日進月歩の知識や技術に振り回され続けているし、それを取っ替え引っ替え巧みに使いこなし人生の勝ち組に飛び込むものもいる。飽くなき野望実現のために、それで殺戮を為している人もいるし、法の追撃に遥かに先んじて、これを犯す者も相変わらず絶えない。要するに、人間自体はほとんどと言ってよいほど変わっていないのだ。

そこで話はAIに戻る。AIで世の中が変わると連日耳にするが、私にはそれが、もうひとつぴんとこないのである。確かに、そのAIな明日が「原子爆弾を落とされた日」(私自身が長崎原爆被爆三世であることは前にも書いた)と同じ脅威で、世界を変える一日になる可能性もあるが、私には、AIごときでこれを境に、世の中が、というよりは人間そのものが大きく変わるとは、相変わらず思えない。

特に、AIが人のする仕事を奪うとか、AIが人間に取って代わるというような言説が、無体に人類を脅かしているが、すべてに悲観的である必要などあるのだろうか、とも考える。
奪いたければ奪うがいい。それで人間が敗北などするものか。どのような革新があっても、頑迷なまでにしたたかで、変わらず愚かで、変わらずたくましい人間が、数十年、数百年後には過去の遺物と蕩尽されてしまうAIとやらに凌駕されるなどということが起こり得ようか。もう一度言う。AIよ、奪うなら、我々から日々の労働とその糧を奪ってみせよ、と。

さて、天然素材であるとか、有機農法であるとか。ジャパンメイドであるとか、イタリアンレザーであるとか。匠の誰々が彫ったのだとか、三つ星のなんとかがああしたとか。テレビに出たとかSNSでバズったとか。それらに微細な幅はあるにしても、人はそれを「付加価値」と呼び、称賛しているのだ。
そうであるからこそ、AI時代になったら一番得するのは人間ではないか。なぜならば、最初にこう言えばいい。

これ、人間の私が作りました、と。

AIメイドでないことが「最高の付加価値」になる時代は、もうすぐそこだ。(了)

Photo by dbreen,Pixabay


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