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「生きる権利」があるならなぜ死ぬ権利が認められないのだろう。

片方では、医学の進歩や発達という合理主義を讃え、制度的には福寿を約束できない長寿を押し付けながら、その範疇から逸脱した者たちが生きながら死んでいるかのように苦しんでいれば、神様からいただいた命だからであるとか 天寿を全うせよなどともやもやとした非合理的なあの金科玉条を持ち出してくる。
  
確かに、命への感謝は尊い。だが、時代が進歩したというならば、あるいは生き方に多様性が叫ばれるならば、 命を選ぶ権利も等しくあるべきだ。おかしな表現ではあるが、生き続けることで生に挫折する人たちが安らかな死を望む時、それを温かく見守り送り出す制度も法も、社会的な理解も十分ではない。 ジェンダーや経済的格差は取り上げられても、命の格差は相変わらず、生き続けることが前提的に扱われて議論にならない。
はたして、死の尊厳のために生の尊厳があるのだろうか。生の尊厳のために死の尊厳があるのか。 人は、一体全体、なんのために生き死ぬのか。その意味が今こそ問われていると強く感じる。

オランダでは70年にわたる法制化の歴史があるし、数年前読んだベルギーでの事例の記事では、安楽死を選んだ者に「病者の塗油」(かつて「終油の秘蹟」と呼ばれ、カトリック世界では死ぬ間際にこれを受けることが天の楽園への約束となる)も行われたとあって驚いた。最近ではニュージーランドも安楽死が合法化されたが、賛否はあるにしても、安楽死は尊厳ある終末として少しずつ認められつつある。

これは、自己責任という少し突き放した物言いとは異なり、已むに已まれず生きることそのものが苦痛であり困難であるといった場合において、自分の命の落とし前を自分で決定する、という意志/意思を尊重した態度ではないだろうか。

そもそも安楽死や尊厳死の議論が、事前に意思を表明した、回復の見込みがなく、やがて遺される家族の精神的/肉体的/経済的負担を考慮した場合において、あくまで延命措置を選択しないという消極的な方法で足踏みしていることに時代錯誤を感じる。これは尊厳死ではない。延命措置の中止は、死とは呼ばない。文字通り、延命の中止である。

なぜなら、決定するときは意思があっても、命を終えるときにはもう自己決定ができないからである。本人の意思での取り消しはもちろん、自分は、与えられた命を目いっぱい生き切ったのだと誇りながら、従容として胸を張って死を決することもできない。それは、生=善、死=悪という相変わらずの二元論が桎梏となって、最期を看取る者たちの罪悪感を助長し、医学の免罪符となり、死が生と隣り合わせに存在していることを認めない、臆病で、傲慢で、一方的な押し付けでしかない。

人は何のために生きるのか。その問いには様々な価値観から意見があるだろう。しかし、15年も前から私も周囲に言い続けてきた通り、「命一杯死ぬために人は生きるのだ」という考え方があっても良いのではないだろうか。

すべての自死は不自然死だ。不自然死というのはやはり不自然なのだ。ひとつの事件なのだ。だからこれを推奨することはできない。しかし、権利に守られた、誰にも後ろ指さされぬ生の閉じ方というものが検討される時が来たのではないか。それは、絶望に背中を押されるようにして、ひっそりと、自責の念に駆られながら孤独のうちになされる自罰であってはならない。十分に悩み、苦しみ、闘って生を全うする者に、誰が石を投げられようか。(了)

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