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私が一瞬だけ輝いた水泳大会の思い出

今日は、自分のことを書きます。テレビをつけるとオリンピックの話題でもちきりです。私は、スポーツに興味がないので見ていてもよくわかりません。「がんばる」とか「根性」とかそういうものとは縁遠い生活をしてきました。そんな私の唯一のスポーツの話です。

私は、子どものころから運動が苦手でした。小、中、高と学校生活で一番の苦手科目が体育でした。なにをやってもうまくできません。特に集団で行う競技は大嫌いでした。私がいるだけでそのチームが負けます。

私がいるとチームが負けるので…

体育の時間、先生に申し出たことがあります。「私がいると仲間に迷惑をかけるので、私は見学をします」と言いました。しかし、体育先生は「そこを助け合うことが仲間だ」とか言って聞き入れてくれませんでした。

現実はそんなに優しいものではありません。先生が言う仲間からは、怒られるだけです。私が仲間だということがわかっただけで、そのチームの人たちはやる気をなくします。仲間たちに申し訳なく思っていました。また、先生に対しては「何もわかってくれない」という不信感が大きくなりました。体育がある日に学校に行くのが憂鬱なっていました。

私のお袋は「お前は、運動神経がないからしかたない」と言い、体育の日は便せんに「風邪ぎみのため体育は欠席させてください」と手紙を書いて持たせてくれるようになりました。私は、どんどん運動から遠ざかって行きました。

私が一瞬だけ輝いたとき

そんな私が一瞬だけ輝いた日がありました。中学一年生の今ごろです。今から40年以上前、小学校にプールがある学校はごくわずかでした。私が通っていた小学校にはプールがありました。しかし、周囲の小学校にはプールが普及していませんでした。そのため、中学一年になって初めて泳ぎを習う子どもがたくさんいました。その中で、私はかろうじて泳ぐことができました。プール開きから夏休みまでの間、ほんの数週間だけ一歩前に出ていました。

中学校の一学期が終わる前、学校でクラス対抗の水泳大会ありました。その予選でのことです。私は好成績をおさめ、決勝戦に出ることになりました。それまでの私の体育人生を考えると夢のようなできごとです。しかし、現実は厳しいものでした。決勝戦は失格でした。

予選の私は、25mをものすごいスピードで泳ぎました。それから息を整える間もなく決勝戦が行われました。私は、決勝戦の25mの途中で疲れて足をついてしまいました。それで失格です。

私は、息つぎができません。そのため25mを息つぎせずに泳ぎました。必死です。死に物狂いで泳ぎます。その結果、好タイムを出すことができました。しかし、続けて行われた決勝戦では息があがり、体力が持たず、足をついてしまいました。結局、クラスから怒られる始末です。

私が水泳でちょっとだけ秀でていたのもそれで終わりです。夏休みが終わるころには、みんなが泳げるようになっていました。

隔世遺伝が心配です

今、オリンピックで競技をされている人たちをみると、自分も何か運動ができたらいいなぁと思います。これからできる運動はあるだろうか、そう考えてスポーツジムに通ったこともありました。しかし、がんばることが嫌いな私には難しい課題です。

最近の体育では、大縄跳びというのがあります。大会もあります。それを知ったとき、自分の娘たちがクラスに迷惑をかけなければいいなぁと願っていました。ところが、娘のクラスが上位になっていたので大丈夫だったのだと思います。遺伝していなくて良かった。次の心配は隔世遺伝です。

連続投稿1000日まで、あと60日

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