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ラッキーガイ

 「クローゼットは戻れる生家ではない」というタイトルで、ここ数日、記事を書いていた。「自分はゲイとして恵まれた。ラッキーガイだ。だから寄与しなければならない」という一文がその中にあった。

 自分のような恵まれたゲイが、そんなことを冗談でも言っちゃいけないことは、それが背信行為であることには、自覚がある。私はラッキーガイだった、分かってる。運があった、状況が許した、チャンスを活かせた。それゆえ社会に寄与しなければならない。それが決してできない人が日本に何百万人といるのだ。ただゲイという立場性を獲得し、発言するという、それさえ困難な人々がいるのだ。「疲れた」なんて言えるだろうか。ノー。それはカメラの前での一人コントで言えばいい。楽になりたいと思うのでもない。クローゼットなんて楽なことなど全くないのだから。

 誰か私に訊けばいいのだ。
 「もしゲイに生まれてなかったら何をしてましたか」、と。
 「今よりずっと恵まれた条件で、ゲイの復権運動をしてたんじゃない?」
 私はそう答える。

前後わかんないし何のこっちゃだな。「カメラの前の一人コント」って何。

 しかしさっき、ついさっき、KOHSUKE さんのこの記事を読んだ。

 そこにはこんな「実感」があった。一部引用させていただく。

6年前オープンリーゲイとして生きると決意し上京、
28年間クローゼットゲイとして生きてきた奴が
野郎ばかりのTHE・体育会系の職場でいきなりオープンになるのは
覚悟はしていたけど最初の一手ではやはり緊張した。

カミングアウト後に幸い拒絶反応はなく会社の人達のリアクションはよかった。先輩とは特に仲良くしてもらって今まで言えなかった下ネタも言えて
めっちゃバカ話をした。昔のように”いかに恋愛話にならないようにプライベートトークをするか”という神経も使わなくて良い。
その為当時は「隠さないってサイコー!」という楽観的な感情しかなかったと思っていました。

しかし当時の心境を
改めて俯瞰してみると

「こんな環境にいる自分は
恵まれている。
だから面白いゲイとして
みんなから好かれないと」


ほんのちょっと
ほんのちょっとだけど
確実に存在してたこの感情を
必死に見ないようにしていましたね。

他にも
「ステレオタイプのイメージを打破しなきゃ」
「でも面白くなきゃ」
という思いもあったかな…

「自分がゲイであることを忘れていた?」by KOHSUKE

 この記事を読んで、そうだよなって思った。実際、よく分かった。


 おれの記事は、日の目を見なくていいや。KOHSUKEさんの記事が読まれるべきだ。おれはまた別に書くだろう。元の文章でもなく、KOHSUKEさんに引っ張られるのでもなく、どちらも消化した上で、その日に思うことを。

 不可逆で二者択一オルタナティブ的なカミングアウト問題。そんな選択をした後で、ココロは他人が思うほど割り切ったモンじゃない。平気です問題ありません、と言わざるを得なくなる場面もある。それで気づけば何か目減りしてたなんてこと、やっぱりある。そういう現実をどこか見えないところに押しやるんじゃなくて大事に書いているから、KOHSUKE さんの記事には他にない魅力がある。ああ、おれの御託はいいや。あっち読んで下さい。よし寝る。


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