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マガジン「看護学生との対話 Archives」についてのご説明

 私(RYOJI)は某医大で2008年から(たぶん2007年から)年に一度「性的少数者と医療」という題で主に看護学生(学部生また院生)に向けた講義を行なってます。その講義に出席した学生に向けフィードバックするのに、またアーカイブするのに場所がないかと探すうち、このSNSを見つけました。場所をお借りして、活用させていただきます。講義録ではなく、「講義後の学生とのセッション」の保管庫になります。こういう記事が頻繁に流れて来るのは迷惑だとお感じになりましたら、この機会にフォローを外していただくのもひとつの方法だと思います。様子を見て、よろしくご判断ください。
 

サムネこんなの作ってたんですけどね。「工業地帯の朝」なんかじゃなくて。しかし良い写真。
「改題」というのは「民明書房」的なシャレであり、元々そんな本はない。でも私は気にしない。
こういうマガジンも企画しているけど。しかしこんなに可愛い子いないだろ~。見たことない。

マガジンの目的

 無料。現在は誰でも読めますが、「講義に出席した学生から送られてきた感想や質問に対してフィードバックする」目的であることから、基本的に受講した学生以外の方が読んでも何のこっちゃですし、講義録ではなく「性的少数者について分かるよう解説した内容ではない」点、ご留意ください。流れてくる記事を読んでも「RYOJIの思考のクセが分かる」「あいつ暑苦しいのねとよく分かる」結果にしかならないかもしれません。

【お願い】コメントの禁止

 このマガジンについては、皆様からのコメントは学び多く私の蒙を啓くものと承知の上で、【全て】ご遠慮いたします。私は講師として学生に対する攻撃を可能な限り予防しなければなならない、それが理由です。また論を待たず、学生の発言は「私の講義を受けての」反応であり「全責任は私にあって」学生が負うものではありません。私へのお叱りやご意見は個人宛メールでお受けし、必ずしもお返事をお約束できるものではないのですが、襟を正して読むことはします。真に勝手ながら、以上が私の「誠意」の範囲です。

「マイノリティとして考え、マジョリティとしてふるまう」学び

 医療系学生のためのプログラムではありますが私自身は医療者でもありませんし、ゲイというマイノリティであると同時にシスジェンダー男性(マジョリティ)でもあります。一方テーマにおいてマジョリティ側にある学生が多数でも、現在もなお多くが若い女性である看護学生は日本社会におけるマイノリティです。そこで私たちは講義室で双方がそれぞれ自らの抑圧者と被抑圧者の立場と経験を自在に行き来しながら、互いに強味を生かし学びを共有して、新たな視座を得ることができると考え、セッションを始めました。真に公平と安全が約束された場では、私たちは経験や思いを隠す必要がありません。内面化された偏見さえ、きっとヒントだ――そういう環境に学生は慣れていないので戸惑いますが。率直な対話を重ね「マイノリティとしての経験を携え、マジョリティ/実践者として社会に寄与する」体の構えを学ぼうとしています。

講師としての私の「3つの骨子」

 しかし学生にとってこの講義は通年開かれるものではなく、在籍中に90~180分という「一度きり」の機会です。医療者として性的少数者に出会う現場に配属される前の、ぶつかり稽古としての面があります。「卒業前に一度は性的少数者(講師)と出会い語らっている」という経験がプロとしての自信を支えてくれるよう願い、教壇に立っています。短時間に先入観から脱却できるよう、言葉も選んでいます。しかしながら、そのような理由あってさえ、特に性的少数者からすれば私の表現は「偏見を除去しようとしていないように映る」ものかもしれません。そう前置きしておきます。あるいは「ショートカットだ」という批判なら予想していますが、それに対しては教育の変革をおすすめします。多くの学生が均質な教育機会を与えられないまま大学生になっている現実に無関心でいられないなら「現状をまず調べる」とか、あなたにもできることがあると思います。

 私の講義には、以下3点のポイントがあります。

①偏見を「ないもの」とせず「あるもの」と認める大切さを学ぶ

 現場に立つ前の、ひとコマ。それゆえ、近年はあえて「偏見はあってよい」と教室で話しています。今では「このスタイルが正しい」と感じています。偏見が誰にでもある/自分にもある現実を直視できなければ対策も対応もできない。まず自分に偏見があると認めるところから、聞く態度も生まれます。偏見を手放すには何年も何十年もかかる。その途方もない作業を前に「私にはできない」と委縮し心理的に課題から離脱する(もしくは学業や業務から離脱する)のでは無意味です。「偏見を表に絶対出さずに仕事はできる。プロとしての仕事をせよ」と私は教えています。大切なのは「偏見を身の内にあるものと認め恐れず」「自身の偏見との付き合い方を学ぶ」ことであるという信念からそうしています。

②「多様性は認めるものではなく見つめるもの」と知る

 「多様性は見つめるものであって認めるなどとはおこがましい」とも言っています。これは日頃「認められる」ことを切望している方には(一見)異常なことと感じられるかもしれませんが、「認める」という言葉が国民から出てくるのは法改正で国民投票になった場合のみなのであって、他者が誰かの生存と存在にかかる部分で認める/認めないと決めるなど恐ろしいことです。「認めましょう」と教えることは支配者育成教育に他ならない。私もゲイで喉から手が出るほど安心と安全を保障されたい、今すぐにでも。しかし次世代を育てる点にも大きな責任があるのです。100年後200年後をみるのです。「あなたに生殺与奪の権があるんだよ。なぜなら支配者だから」と人を育てるのは人間存在へのこの上ない侮辱であり虐待以外の何物でもない。これが私の「マジョリティとしての」視座です。

③「共感しなくてよいので理解せよ」「共感的態度は技術」

 支援を志す人々は「共感」と「共感的態度」を混同しがちです。学生もまた「共感」を自他の境界を曖昧にする「同化」と誤解します。それゆえ「同性に性的魅力を覚えることができない自分は本当には共感できていない。できるとも思えない。医療者失格だ」と考える学生が出てくる。しかし共感は同化ではないし、ヒアリングや患者のサポートに必要なのは「共感的態度」という「技術」です。「共感力」などという曖昧で個人差ある資質が期待されているのではなく、高度で均質な技術習得が求められている。その考えに立って、私はあえて「共感しなくてよい」と語ることもします。さらに「理解」とは「AとBのちがいを整理することであり、同化とは真逆の態度である」と教え、「理解だけすればよい」と教えています。

 もちろん、“Habit is a second nature.” とことわざにあるように、共感的態度という「習慣」は、いずれ「第二の天性」になる余地を残す。私は私と出会った学生たちを信じています。世に次のような名言もありますね。

 "it’s what you do that defines you."  /「行動があなたを定義するのよ」              
                       ――レイチェル・ドーズ
  
 「それじゃ脇役かモブのセリフだ。お前の人生ではお前が主役だろ?」
                       ――RYOJI


 なお、授業では次のようなルールが敷かれます。

 私は経験豊かな講師であり、今この時この場所ではいわゆる「当事者」でも「患者」でもない。だから質問時に「失礼な質問なのではないか」と考えなくてよい。何が失礼かを学ぶための時間なのだ。失礼な質問に対しては「なぜそれが失礼なのか」という説明と「失礼にあたらない表現」についてヒントが与えられる。
 ただし、いついかなる時でも、私以外の性的少数者を質問攻めにしてはならない。彼らが患者でなく友人の時も。彼らは講師ではなく、あなたを導く義務をもたない。

 

 上については、まあ私自身も講師料が発生していない「私的な」時間には質問攻めされるべきではないでしょうね。

 他にも細かなルールというか、私の講師としての個性で、講義では「難しい問題だとわかりました」という感想で終わることは歓迎されません。巷間そうした感想を得て満足する【当事者】講師が多いらしいのは学生の定型的な反応から薄々感じていますが、私は「難しいことを理解できるように」語ることに心血を注ぐ講師なのであって、講義の終わりに「難しいことに取り組んでおられますね」とおだてられて自尊心をくすぐられる者ではない、ということです。そもそも誰にとっても利益相反になる話ではない(だから難しくなんかない)という講義内容です。

 さて、そんな感じでしょうか。満足にはいまだ遠く、いつでも語りつくせない思いはありますが、ひとまず。それでは、よろしくお願いいたします。

 とか書いていて、まだ記事となるフィードバックを書き終えてないんですが。年度またぐってさすがひどいよな。どうなるどうする。パスタ茹ですぎた。

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