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「ご感想への返信2023」No.02

 私の母と祖母は「同性愛者が嫌い」と公言しており、特にそれを悪いことだと思っている様子もない。私は周りの友達がボーイズラブ作品を好んでいたこともあり同性愛に偏見はなく、母や祖母に「同性愛の何が悪いのか」「差別は良くないことだとわかっているのではないか」とよく聞いている。そう聞くと、差別自体が良くないことであることは認める一方、「だって気持ち悪いから」「不自然なことだから」と感情論やまったくの偏見を語るだけで意見を改めてはくれない。一緒にいて気分が良くなく、「仮に私が同性愛者であったらどうするのだろう」と思うこともある。そうした母や祖母のような人の意見を変えるために、私たちは何ができるかと考えた

学生による感想


まず確認すべき点のひとつふたつ

 ご家族(おばあ様とお母様)はあなたに対して「気持ちを変えようとする」あるいは「あなたの部屋に入ってBLを捨てる」などの介入をするのでしょうか。それに類する介入があったら行き過ぎだと、やはり思います。  
 
 あなたがおばあ様やお母様に「どうして同性愛が悪いと思うのか」と問い、「意見を変えるには」と考えるかというと「仮に私が同性愛者であったらどうするのだろう」という不安があるからなのですね。あなた(子)が仮にやっぱりシス‐ヘテロだったという場合にも、孫、ひ孫もリスクを抱える。その切迫感が親と共有できない、今はそんな状態のようです。

 課題への距離感は人によってちがいますね。どんな社会問題でもそうです。意識の上で、ご家族にとって「同性愛」は遠い。それこそ感情論で済ませ自分の偏見に向き合わなくていいと考えている。あなたはちがう。親子間の信頼や将来的な家庭の危機という切実さで「近く」感じている。「他人の問題とみるか」「自分の問題とみるか」のちがいが親子間での信頼関係を揺るがし「自分や自分の子が性的少数者だった場合に親との対立を余儀なくされる」という現実認識を子は抱えるが、現在は共有できない。

 不信感が強くなってしまったら、大学のカウンセラーに話してみてもらえたらいいなと思います。問題の整理に助力するカウンセラーは将来のあなたの立場であり、現在のあなたは患者の思いを経験できるのです。授業で行なうロールプレイではなく、与えられた設定でもなく、家族問題の悩みに直面している立場で「患者はどのように主訴を言語化できるのか/できないのか」、自分の痛みの深さを訴えたい気持ちと第三者に家族の問題点を話す時に生じる「庇いたい心理」が拮抗する中で相談する大変さを実感する機会です。でもそれは、あなたが患者からヒアリングできなければならないことなのです。あなたは自分に問えなければならない――主訴は何か、と。

 そうした経験を重ねるうちにあなたが見つける医療者としての理想像は、教員が「こう在れ」と教えるものとはちがうかもしれない。自分はどんな看護師になりたいのか、きっと悩む。しかしそんな時間が大切です。


 ここからは授業を振り返りつつ、私の視座を書きます。

「偏見はあるし(今)あってよい」と私が語る真意

 私は数年来「偏見は誰にでもある。私にあるしあなたにもある。自らの偏見に影響されず医療者として仕事ができることが大切」と講義でお話ししています。皆さんは就業してすぐ多くのスタッフを指導する立場になり、様々な「偏見」をもったメンバーたちの取りまとめ役をしなければならない。スタッフ全員が個人的な主義/宗教/思想を仕事に持ち込まず医療者として応召義務を全うできるわけではない――患者に拒絶反応を起こす者もいれば、共感的態度で接することができない者もいる。患者に意地悪するかもしれないし他のスタッフと遮断しようとするかもしれない。そうしたことはどんな「プロ」の世界でも起こるから、当然病院でも起こる。あなたはスタッフの言動を観察して問題行動に気づき対処しなければならない。――だから私はあなた方に「偏見は誰にでもある」という前提でいなさい、と言うのです。

 あなたの部下であるAさんは自他共に認めるホモフォビアな看護師である。だが長期入院中、家族に紹介できない同性伴侶の心情を思って療養に専念できない患者がいた時、他の見舞客がいない時に同性伴侶が面会できるよう計画書を提出しスタッフ総出の協力を仰いだ。部下Bは自称「偏見なき」看護師で性的少数者の患者と親密に話せるが囲い込みの傾向があり、トランス患者からの相談をカンファレンスで共有せず、患者が離脱を起こした。
 以上は架空の事例だが、どちらが患者にとって「良い」医療者だろうか。

   

 これは明らかですよね。看護師Bの「囲い込み」が分かりにくいかな。自分が偏見から解放された人物だと感じていて、極端には「他の人には理解できない」「真に共感できるのは自分だけ」と感じる瞬間に強い喜びを覚える。従順な「犠牲者」を求め、庇護を受けない「当事者」が苦手。「当事者」から批判されると一転攻撃的になる。別に珍しいタイプではないよね。

 もちろん素養や下地はあった方がいい。誰もが良いバランスを保ちながら偏見を手放していることは理想である。ただそれは長期目標なのです。背景が様々なスタッフ全員のレベルを一定に保つには何度も勉強会を重ねていくしかない。「今」短期から中期に焦点を定めて患者にとって安全な医療環境を整えるなら、あなたがまず自他の心に偏見があることを率先して認め、それをコントロールして仕事に専念できるよう、部下を導かなくてはならない。そこで「偏見は誰にでもあるもの」と掲げることで、全職員に介入できるのです。

 授業で「私たちには偏見がありません」と最初に宣言する組織や個人に介入する難しさというお話をしましたが、多くの組織ではそれをやる。実際に偏見がないなら結構なのですが、必ず何かあるもの。つまり単に偏見があるより壁ひとつ分、厄介な案件になるのです。
 だから「偏見ありません」という看板はぜひ下ろしてください。まずあなたの心からその看板を下ろして、代わりに「誰の心にも偏見がある。私は自分の偏見を恐れず向き合う」と大書するのはどうでしょうか。

「偏見なき人たち」の差別問題からの離脱

 私は「偏見から解放されているというセルフイメージにある人」が「自分を特別だと感じ」→「変われない人を見下し」→「変われない人と距離をおく」という心理になる、「差別問題からの離脱モデル」も示したはずです。軽蔑は拒絶となって、何が起きるか。意外なことに、多くの人は努力をやめる/無関与になるのです。人間や社会を軽蔑して、マイノリティとの蜜月状態を作ることに専念して同化を図る。「変われない」マジョリティに対しては心理的にも事実上も「分断」を起こしているので距離をおき何も作用しない。「偏見なきマジョリティ」の世界は一変して、抑圧側にいる自己から解放され「差別問題」が終わる(終わったことにする)。しかしマイノリティにとっても「変われない」マジョリティにとっても、昨日と同じ今日、今日と何も変わらない明日が続いていくだけなのです。

文中の「問い」――「私たちに何ができるか」について

(※意見を変えること以外について書いています)

 では「偏見なきマジョリティ」である「あなた」もしくは「私」が無関与にならないためにはどうしたらいいか。自分が差別問題から解放されないままでいることが、とても重要になると思うんですね。マジョリティである立場から降りない。抑圧側に配された立場を忘れず生きていく。制度的な被抑圧者の暮らしは制度が変わらなければ好転しない点を胸に刻む。「変われないマジョリティ」についても心から締め出さず、交流する余地を自分に残しておく。そして常に変化を願い、具体的にできることを思索し続けるのです。――私が授業で皆さんと共有しようとしたのは、そうした「自分に偏見が【あるもの】と感じ、考え、時に表明することの大切さ」です。

 私は日本社会で日本人であるシスジェンダー男性で、被差別部落に生まれたのでもなく、在日でもなく、少数民族でもなく、まだそれほど年寄りでもなく、それなりに健康です。ゲイという属性はあるけれども、圧倒的なマジョリティです。だからこそできることがあると考える。「誰もが何かの部分でマイノリティである」という言い方があるけど、それは「誰もが他の部分ではマジョリティであり、できることが沢山ある」ということ。私はそちらの意識を大切にしたい。皆さんにもそうして欲しい。「差別問題という【抑圧問題】」から一抜けせず、自分たちの社会と向き合いましょう。これはあなたの人生で、あなたが主人公です。私たちはこの不可逆な歩みの果てに抑圧構造を解体し、加害者も被害者もなく笑い合う。その時に初めて、解放されるのです。抑圧側である自分も初めて解放されるのです。顔を上げよう。ワクワクしようぜ。


 あなたの悩みに役立つかは分からないけど、他にもメモを残しておく。

私が最初に感じたこと――「お、性的主体の気配」

 これは奇妙に感じられるかもしれないけれど、私はあなたのおばあ様やお母様が「ゲイについて否定する文脈のなかで」シス‐ヘテロ女性として「曖昧ながら一定程度」自らの異性愛を肯定し始めていると感じ、大げさにいえば「性的主体として自己決定し始めている」徴候かもしれないと、少し「喜ばしい」気持ちになったんですよね。「気持ち悪い」と「不自然なこと」というふたつの言葉は分けて考えなければならないのですが、「不自然なこと」は全く科学的にダメでも、「(同性愛は)気持ち悪い」がいつか転じて、「(異性愛は)私にとって気持ち悪くない」という発言になってくれないか。そう感じた部分はあるんですね。そういう意味での、期待を込めた「OK」というかね。

「同性愛は(彼女たちにとって)気持ち悪い」というその言葉で、彼女たちは変則的に「異性愛は(彼女たちにとって)気持ち悪くない」と表明した。前世代の「性について(とりわけ自分の欲求について)」語る言葉を奪われてきた時代感覚を濃厚に引き継いでいるはずのおばあ様が、何であれ――自他を比較して他方を否定するという形であれ――「自分の性的欲求を認め言語化し始めた」兆しは、私には、いいなと思えたのです。自己の異性愛欲求を自分の感覚と言葉で肯定していく、良い習慣の始まりかもしれないと。

セクシュアリティについての語り言葉をいま探してるんだ、と。

 あなたには「じゃあおばあちゃんにとって男の人との性的な関係は気持ち悪くないのね」と「ここは水を向け」、話し続けられるように誘導することで、相手を助けることもできる。自分のこととして性を語る、言語化する場って誰にでも必要だから。あなたには「家族を理解したい」という感情がある。今がっかりしているけど、話を聞くうちに、その部分では収穫があるかもしれないよ。今のあなたは「家族が分からなくなっていること」の苦しさがきっと大きい。――でもBLを読んで同性愛に偏見を捨てられるのであれば、女性がどれだけ自らの性についての語り言葉を奪われてきたかという学びから、彼女たちに助力することもできるはずではないだろうか――彼女たち自身がまだ目的は曖昧ながら自分の性を肯定し始めた今こそ。あなたも成人です。人は親から手を引かれなくなった年齢から、親の手を引き始めなければならないのだよ。でもそれは決して、寂しいことじゃないんだよ。

ただし「Aの素晴らしさを語る時、Bを否定する必要はない」

 もちろん異性愛を認めるために同性愛をけなす必要は「全く」ありません。異性愛と同性愛は考えるほど奇妙なセットになっていた。「同性愛か異性愛か」とか、何であれ優劣を付けたがる自意識は愛を語る時に不純物でしかなくて、異性愛を「同性愛よりマシなだけの何か」に堕としてしまう。とても残念なことにね。だからシス‐ヘテロは同性愛/他者を否定せずに「異性愛を認められなければならない」。異性愛者は異性愛についてもっと別に語るべきことがあるはずなんだ。今のままじゃ「ノンケ=同性愛の気質がない(だけの)人」だ。それは本当に、もどかしい。

 私はシス‐ヘテロはそれほど自己受容できていないと感じ続けて来ました――シス‐ヘテロが異性愛を(また性別不同ではない自分を)どこまで肯定できていたのかという点について楽観視していない。少なくとも自分より劣等と感じられる対象(同性愛)を長い期間シス‐ヘテロは手放さなかった、どうしても「ゲイ=蔑視できる対象」を必要としていたのだから。
 シス‐ヘテロが自己受容し、自らのセクシュアリティを語る「自分の言葉」を獲得して、たぶん初めて他者/性的少数者を受容できる。――おそらく、これが「正順」です。ほかのルートは「抑圧者から庇護者へのジョブチェンジ」を含め迷路です。私はそう予感している。あなたが家族を変えたい時に鍛えるべきは、「同性愛を受容させる言葉」ではなく、「異性愛を受容させる言葉」かもしれない。どう思いますか。


偏見は不合理。だから不合理に消えることもある


 最後のメモ。偏見はそもそもが不合理なものです。だからこそ、とても不合理な理由で消えることもある。というより、人は不合理な生き物だから、時々自らの偏見さえ飛び越えてしまうこともする。例えば娘が同性愛者だったら、あるいは孫がトランスジェンダーだったら、制度を変える立役者になるかもしれない。――そういうことも、逆のパターンと同じに「よくあること」なのです。それも自然な情動であるし、たぶん人類のポテンシャルなんだよ。手前味噌で悪いけど――いや別に悪くないか、「カミングアウト・レターズ」という本がある。そこに綴られた、カミングアウトされた親の葛藤をこそ読んでほしい。葛藤の先に起きた変化を希望にしてほしい。

 絶望は人を楽にもするだろう、行動しない理由をくれるから。だから怠惰な人間は好んで絶望を友人にする。それに比べて希望は何て厄介なのだろう――人に楽をさせず、行動を促す。希望に苦しむこともあるだろう、分かってる。でも私は希望の重みに耐え抜く人間が好きだから、ここにも希望を置いていく。あなたが歩みを止める理由などあげないよ。そもそも20歳そこそこの学生が50歳のゲイと世の中を嘆き合いながら生きるなんて、どう考えたって悪趣味だろう。そんなの容認できない。あなたには、もっと別にやるべきことがある。

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