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「普通の人生」について今一度考えるための、あくまで個人的でありながら外向きに寄りきった少し長いメモ。

こんにちは、石田諒です。
東京都出身、長野県佐久市在住。
33歳のフリーランスみたいな人です。
写真や、言葉や、企画を生み出すことで生きています。
元、地域おこし協力隊です。

『普通の人生』について考えるための個人的なメモを公開します。
いわゆる、自分史です。

▼生誕〜幼稚園

1986年9月、東京都の世田谷区に生まれました。
専業主婦の母と、会社員の父。兄弟はなく、ひとりっ子でした。

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幼児期は神奈川県川崎市多摩区のアパートで暮らしていました。
記憶にはなく、住民票の履歴でしかその事実はたどれません。

当時のアパートはいまでもこのように残っています。

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やがて、母方の祖父が体調を崩し入院することになりました。
自分と母と父は東京都世田谷区にあった母の実家・海老澤家に引っ越すことになりました。
こうして、祖母をふくめた4人での暮らしが始まりました。

母の実家は、木造平屋の大きな古民家でした。
広い庭があり、畑があり、貸家もあった、いわゆる「地主」の家でした。

自分が持っている「いちばん幼い頃の写真」は、まさにこの時期に撮られたものです。

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世田谷区の最南西部にある宇奈根という土地は、東京23区のエアポケット的な片田舎でした。

のどかな風景のなかで育ち、僕は仏教系の幼稚園に入りました。
母親依存が激しい子で、毎朝のように「ようちえん行きたくない!」とぐずりました。
夏休み明けなど長期休暇のあとは特にひどく、泣いて暴れまわった全身の感覚のはいまでも節々に染み付いてます。

幼稚園の年長組のときに祖父が亡くなり、生まれて初めて「お葬式」というものを経験しました。
真夏の葬儀は実家で行われ、たくさんの人が出入りするなか、緊張しながら汗だくで正座していた記憶があります。

▼小学校

人見知りの激しい小学校時代。
身体が小さく、おとなしく、ひとり遊びを好むタイプでした。
自分の感情を表現するのが苦手で、たびたび友達相手に泣きながら怒りをぶつけていました。

低学年の時点で子どもながらに、両親の仲がとても悪いことに気づいていました。
父親が家にいる時間は、両親がぶつからないように全力で気を使いました。
もしかすると、そういった家庭でのストレスが、学校での対人関係のトラブルにつながっていたのかもしれません。

高学年の頃に初代ポケモンが発売されました。
それまで2.0近くあった視力が一気に落ちました。

母親の意向で真冬でも短パン、というファッションでした。
そのことについては、僕は気に入ってはいませんでした。

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▼中学校

中学生になっても身体は小さいままで、背の順ではいつも先頭でした。
朝礼や行事での列になっての移動のとき、後ろの方は先生の目が遠くてうらやましいと思い続けました。

学校は部活全員加入の方針だったので、仲の良かった友達にくっついてソフトテニス部にはいりました。
運動は大の苦手でしたが、「運動部に入らないヤツは終わってる」という当時の男子界隈の暗黙のルールとプレッシャーに従わざるを得ませんでした。

強豪校だったため練習は休みなく激しく、先輩やコーチの“しごき”も現在なら間違いなく問題になるレベルでした。
当然のように入部を後悔しました。

2年生に上がったタイミングで部活全員参加のルールが廃止され、校長と学校を恨みました。

厳しい練習に耐えられず部活を途中で辞めた同期は、学年の男子から「負け犬」のレッテルを貼られました。
そのまま学校自体も不登校気味になってしまいました。

自分もそのように葬られるのが恐ろしく、残るも地獄、やめるも地獄のまま3年間、補欠の補欠で肩身狭く過ごしました。

ストレス発散のため、家にいるあいだはずっとゲームボーイカラーで遊んでいました。
視力は落ち続けましたが「目が悪い」という自覚がありませんでした。
メガネを買ってもらう、という選択肢が思い浮かばず、勉強にも部活にも支障が出続けました。

父親は徐々に、家には帰ってこなくなりました。
9.11/アメリカ同時多発テロが起きたのはその頃でした。

▼高校

目が悪く黒板の文字が見えないため勉強についていけなかった中学校時代。
当然、成績が良いわけがありません。

進学や将来にも興味がなかったため、入れそうで制服のデザインが気に入った学校を適当に見繕い、推薦枠で都立高校に入学しました。
そこは偏差値は40に届くか届かないかの底辺高校。
集まる生徒の質は偏差値に比例する傾向が強いことを、誰も教えてくれなかったことを恨みました。

さながら、漫画『魁!!クロマティ高校』の神山の気分でした。
それでも似た者同士の仲間は少なからず、できました。

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学校の環境が環境だけに授業など成立しておらず、毎日出席して静かに席に座っていれば、テストが赤点だろうがそれなりの成績が取れました。
僕は自分の学力を勘違いし続けました。

中学校時代の反動で、高校では帰宅部に徹しました。
勉強もせず部活にも入らず、本も読まず、何もしない。
自信を持って動ける武器もなく、引っ込み思案も変わらず。
人生で一番、無駄な、本当にただ無駄な時間を過ごしたと思います。

高校2年のときに両親は離婚しました。
ストレスからか一度だけ、学校で体育教師にキレて暴れたことがあります。

世の中では携帯電話のパケット定額制がスタート。
auのWIN機種を買い、インターネットやメールにハマりました。
時間と視力をひたすら費やすだけの時間でした。

卒業間際になって、思い出づくりのために友人と集まって映画をつくろうとしました。
オリジナル脚本を書き、コンテを描き、撮影が始まったところでタイムリミット。
制作は頓挫、卒業。

人生で一番、無駄な、本当にただ無駄な時間を過ごした高校時代。
ただ唯一の救いは、テクノとヒップホップと、映画に興味を持ったことです。

▼専門学校

高校生活終盤に『踊る大捜査線』シリーズ、『マトリックス』シリーズ、音楽PVにハマり、映像に熱をあげ、勢いで日本工学院専門学校放送芸術科に進学しました。
進学するだけでも奇跡のような高校にいたので、先生たちからも応援されました。

漠然と「自分は映画監督や映像作家になるんだ」と感じていました。
早くに自分の進路を見つけた自分は勝ち組だと確信しました。

進学を機にメガネを買い、ようやくクリアな視界を手に入れました。

美大の映像科のようなアヤシイ雰囲気の「ショートムービーコース」に進み、実験映像やビデオアートの世界に出会いました。
しかし結果的に専門学校の本質は、テレビスタッフ就職予備校でした。

アートだなんだと、お金にならない作品を量産して授業にも出てこない僕らのコースは疎まれていました。
就職率を下げているので当然です。

授業や実習では高い評価をもらい続けていました。
自分のセンスと才能を信じました。
僕は個人の自主制作を中心に、コンテストや映画祭で賞を取ることに執着しました。
ところがその願いはまるで叶いませんでした。

学生時代に受賞して作家としてプロデビュー。
それ以外のシナリオは浮かびませんでした。

高校時代までの自分を変えようと、入学直後にはクラス長に立候補しましたが、一切のリーダーシップを発揮できないまま失脚に終わりました。
クラスの中心は別の男子が担っていました。
クラスの飲み会にも行きませんでした、というより誘われませんでした。

自主制作作品はどこに出しても何の評価も得られず。
また、自分に自信の持てない暗い時期が訪れました。

大手映画会社やエンタメ業界に入ろうと調べたところ、応募資格に「四大卒以上」とありました。
「何かが、変だぞ」と気づき始めました。

先のことを決めずに卒業目前になった時期。
突然、映像制作会社の方から「ウチで働かないか」との誘いがありました。
自分のスキルが認められスカウトを受けたと思い、その誘いに乗りました。

▼社会人

就職したのは小さな映像制作会社でした。
入社してすぐ、そこから赤坂のキー局系列の別の制作会社に出向となりました。

スキルを買われたスカウトではなく、ただの兵隊の招集だとわかりました。
映像編集アシスタントとして、低賃金・低待遇・長時間の激務。
僕が体験したテレビの世界は、ネットで話題にもなる「AD残酷物語」のようなものそのままでした。

同じ仕事をしていても、赤坂キー局の新入社員は神の子のような扱いを受けていました。
給料も勤務待遇も当然、比べ物にならないほど違います。

奴隷の扱いに耐えられず、3ヶ月で退職。
知人のつてで入った2社目でも状況は変わらず、また出向。
たった2年間で転職を2度繰り返し、気づけば映像業界からも離れていました。

世の中、学歴や会社の規模や知名度が大事なのだと思い知りました。
契約社員と正社員の違いや、働くについてのアレコレについてにも初めて知りました。

横道にそれますが、これは生まれて初めて美容院に行ったあと、記念に撮った証明写真です。

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どうにか転がり込んだ大手町のマーケティングオフィスでも「正社員は大卒、パートや契約社員はそれ以外」と明確に分かれていました。
僕は当然、後者でした。

やがて世間ではリーマンショックが起き、その影響を受けて職場では理不尽なパートスタッフ切りが行われました。
社内の雰囲気は如実に悪くなり、僕は逃げ出すように自主退職しました。

「ちゃんと就職が決まった」と嘘をついて辞めたため、祝福ムードで送り出されました。
あまりにもツラく、心が荒れました。

続けていた映像の自主制作も、コンペには落ち続けました。
まだ22歳でしたが、最低の時期でした。
自分の人生の先がまったく見えませんでした。

▼母の急死

今度こそしっかり考え直そう、正社員として社会復帰しよう。
そう考えていた矢先、マーケティングオフィスの退職からわずか半月後。
母が自宅で倒れ、そのまま亡くなってしまいました。
2009年6月13日の朝方でした。
自宅での死ということで、カタチ上ですが警察の現場検証と事情聴取を受けました。

もともと病院嫌いで、ヘビースモーカーで酒飲みで偏食だった母ですが、この数年は如実に痩せ、体調を崩すことが多く。
このときも体調不良で寝込んでいて、「病院に行け!」と言っても行動しないので喧嘩になり「おまえもうマジで死ぬぞ?」と言い放った直後でした。

救急車が到着するまでのあいだ人工呼吸をしました。
肺に水がたまっていたのか「ゴボゴボ…」という音がして気持ちが悪かったのを覚えています。

母の死後はとにかく大変でした。
相続や、不動産に関する親戚・近隣との軋轢。
90歳近い祖母の世話。
祖父の代から続いていた近所の面倒ごと。
家のことすべてが自分に降り注いできました。
再就職がどうのなど、考えられる状況ではありませんでした。

その後数年して、家と土地は売却することとなりました。
2008年に制作した実家をテーマとしたドキュメンタリー作品は、まさか母と、自分が生まれ育った家の「遺影」となってしまいました。

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▼無職〜予備校生

気づけば無職期間も1年を超えていました。
近隣との不動産の問題は解決のめどが立たず、先の見えない状況でした。

自分の将来を考え抜いた結果、大学に進学することを決意しました。
もう一度、映像を学び直すことも考えましたが、どうも一歩踏み出せませんでした。

予備校に入校して、私立文系の一番上のクラスをとりました。
そこで初めて、世間の高校生が立派に勉強していることを知りました。
自分の中高時代を死ぬほど恥じました、悔やみました。

秋葉原での通り魔の犯人のことを思い浮かべ「予備校で落ちこぼれて、これ以上劣等感を溜めてしまったら自分も同じことをするかもしれない」という恐怖がありました。

中学の同窓会があり、母の死を慰められました。
「大学に行こうと思って予備校に通ってる」と話したら、とある同級生と大喧嘩になりました。
その彼は当時から秀才で、いわゆるエリートコースの会社員でした。

「勉強や学歴が大事なことは子どもの頃からわかっていた、だから俺は頑張った。いまさら勉強して大学行って何になる?」

彼から投げられた言葉は今でも忘れられません。

▼大学進学

それでも大学受験はやはり難しいものでした。
ブランクがあるだけでなく、もともと学力は低いのです。
大学を調べ上げ、受験作戦を練りました。

唯一、学力が伸びた現代文・古文・漢文と小論文、そして面接で合否が出る方式を見つけました。
焦点をそこだけに絞り、賭けの一点突破を狙いました。

そして晴れて、第一志望の法政大学文学部日本文学科に合格しました。
これで大卒の資格を得るスタートに立てた。
社会人時代に体験したあのヒエラルキーの上部に入ることができる。
晴れ晴れとした気分でした。

24歳の学部1年生。
周囲からは賛否両論ありました。
まだそのような価値観の時代だったのです。

入学まであとひと月、というところで3.11/東日本大震災が発生。
自粛により、記念すべき大学の入学式は中止となってしまいました。

しかしながら、大きな壁を自分の力で越えることができたことで、自分に自信を持つことができました。
今の自分の人格は法政大学に入学してから培われたものだと思います。

アナウンス研究会という、ラジオ番組や映像作品をつくるサークルにも深く関わりました。
最終的には会長や、学生連合団体のトップにもつきました。

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苦労して入学した割に、あまりにも簡単に単位がとれるのでもったいないと思い、1年間の自主休学もしました。
その間、図書館の本をすべて読もうとしたり。
教授と飲みに行ったり、他学部の授業に潜入したり。

もう向かう所敵なし、という気分でした。

▼就職活動〜長野県移住

いざ、就職!と思って就職活動を始めると、予定外の事態が発生しました。
「新卒」の概念が、自分とニッポン社会では大きくかけ離れていたのです。

今年卒業するのだから新卒だろう、と考えている自分と。
29歳は新卒とは扱えない、という大半の企業側の考えとの対立です。

結果、就活。〜私が落ちた163社〜(仮)その1のような状況となりました。

第一志望であった花王のコピーライター職の最終面接で落ちました。
書類選考、説明会、体験会、面談2回、実技2種、グループワーク、を経ての最終段階でした。
給与の調整の話までしました。
「縁がなかった」という通知を受けたときの絶望。
夢の有名企業正社員が叶わず、もう何もする気が起きませんでした。

そして僕は流れ流れて、長野県佐久市の地域おこし協力隊の職に就くことになるのです。

長野に来てからはそれまでとはまた別の苦労の連続でした。
それまで人生の幸福の基準として信じてきた「学歴」や「企業規模・知名度」とは、全く違う価値基準が存在していたのです。

長野に来た頃の自分は、「どうにか田舎で実績を積んで東京に帰り、正社員就職をするんだ」と考えていました。
そのため、どうにかコネをつくりたく、様々な場所に出向いていました。
それがどういうわけか「地域活動にアツい若者」という風に映ったのか、過労寸前になるほどに爆発的に仕事が舞い込むこととなったのです。

地方では無尽蔵に仕事を引き受けても一切儲からないことがわかりました。
シビアに断ることが大事だと学びました。

▼「普通の人生」を送るのは難しい

普通に進学して、普通に就職して、普通に家庭を持つ。
僕は「普通の人生」から離れてしまったことに苦しんだ時期が長かったです。

長野に来てから僕は「本当の豊かさ」や「ここち良い生き方」について考えるようになりました。

いまは段階的に仕事量を減らしています。
ほんとうにやるべきことだけをやれるように。
本当に楽しいことを素直にできるライフスタイルを目指して。
妻とともに日々、奮闘中です。

アー写2019秋



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