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田沼武能さんのこと

写真家で元写真家協会会長の田沼武能さんが亡くなった。1929(昭和4)年生まれの93歳。田沼さんについてはあちこちに書いてきたが、まとめてみよう。

日芸写真学科4年のゼミは木村惠一先生だった。1988年。卒業して東京竹橋の毎日新聞社が入ったビルにあった通信社サンテレフォトの仕事を得る。その会社の別室に田沼武能さんがいた。

当時の二大カメラ雑誌は「アサヒカメラ」と「日本カメラ」だ。その新製品レポートは前者が田沼さんで、後者が木村先生だった。高校時代から愛読していた記事を担当していたお二人と知り合いになれて驚いた。(本来なら両方とも先生と呼ぶべきであろうが、馴染みのある敬称で書く)

1950年代にサン通信社に在籍していて、その関係で部屋を持っていたとかいう話だったと思う。アサヒカメラなのに毎日新聞社からの試し撮りがあったのはそのためだ。決して広くないその別室はネガやら資料やらが詰まったラックでびっしり。壁に写真や印刷物がピン留めされ、いかにも「写真家の事務所」という雰囲気に憧れて、お弟子さんだけの時に用もないのに遊びに行った。

当時の田沼さんは海外取材で忙しく、相棒の藤村一郎さんという大正14年生まれの写真家の人がお弟子さんたちの面倒を見ていた。藤村さんは朝鮮戦争従軍からの長い経験があり、スピグラで朝鮮戦争やハリウッドスターを撮った話をまるで昨日のことのように話してくれた。

自由な会社だった。夜に会社に行くとその藤村さんが印画紙の乾燥機のところで、ランニング姿でお弟子さんを怒鳴ったり叩いたりしている。夜勤の私などは撮影帰りにわざと早めに出勤するやいなや毎日新聞社の風呂に入り、昼間の社員の人にさそわれて赤坂飯店や長寿庵にビールを飲みに行ってしまう。もしくは定時の21時に来るときはカメラバッグにビールとつまみを詰め込んで出勤し、写真について語り合う。

まさに「池中玄太80キロ」のようだった。

田沼さんといえば世界の子どもたちの写真が有名だ。黒柳徹子さんとのユニセフの活動でテレビでもおなじみだった。私たちがサンテレフォトの営業用の机に東スポを広げて宴会をしていると、いつも帰りがけに話をしにちょっと寄っていった。

「田沼さんも飲んでく〜?」と誘っても「いや僕は帰るよ」と帰っていくのが常だった。田沼さんは結婚が遅く、二回りも年の離れた綺麗な奥さんだったので「かあちゃんが若いから早く帰んないと」と言って先輩社員たちはからかっていたのだ。

下町のオッサンといった気さくな雰囲気で、我々は「たぬきん」とか「タヌタヌ」と陰では呼んでいた。まさか後年、文化勲章を受章するとは想像もしなかった。

私はそこに足かけ9年在籍したが、その間に報道写真の世界は様変わりした。1988年当時は電送写真の受信も現像もすべてが手動だった。しばらくして自動現像機が出来て、手動なのはプリントだけになった。写真部だけでなく外信部の仕事も自動化が進み人員が減っていく。仕事は楽になったが人との交流がなくなっていった。1997年に退職。この業種に先がないのは見えていたし、フリーとしての仕事が忙しくなっていたので未練はなかった。

残った社員の話では、その直後に暗室がなくなり、写真部がなくなり、さらには会社そのものが解散となった。同じビルの毎日新聞社も私が入った頃は職人さんが真っ黒になって活字を拾っていたが、その人たちもずっと前にいなくなっただろう。その10年ほどで世の中の仕組みが大きく変わったのだ。

サンテレフォトの末期には田沼さんがしばらく社長を務めたそうだ。

いまから10年くらい?前だったか、サンテレフォトの同窓会をやろうという話が持ち上がった。私も発起人に名を連ねた。長い歴史のある会社なので幅広い世代の人が集まった。最後に私が記念写真を撮った。田沼さんも楽しそうだった。

1〜2年おきに3回開催した。私は1回目と3回目に参加。会を重ねるごとに参加者は減ったが、3回目のときは田沼さんの強い希望だったと聞いた。その時は「あーだいぶ年取ったなあ」とは思ったがまだお元気だった。

最初は皆、田沼さんと話したり写真を撮ったりしたいのでそばに座る。会も後半になり何となく同世代で固まり始めた頃。ふと見ると上座の席で田沼さんがひとりで赤い顔でポツンとしていた。私はグラスを持って隣りに座った。

「おう!元気か」「はい。何とかやってます」私のライカM2を見てカメラ談義になった。「M2だね。M2も良いけど、僕はやっぱりM3が好きだ。あれは最高のカメラだよ」若い頃に昼飯を抜いたり苦労をしてM3を買った話をしてくれた。本で読んで知ってはいたが本人の口から聞くのは貴重だった。

それから田中長徳さんや赤城耕一さんの話なども出て大いに盛り上がった。私も酔いが進んで、いつもSNSやネットで書いているような写真界の現状についての話になる。田沼さんは急に真面目な顔になった。

「そうだね。僕もいま頑張って働きかけをしてるんだ。プロはみんな訓練を積んでなるものだ。だからその写真には相応の対価が支払われるべきだ。今は誰でも撮れると言うが、【撮れた写真】と【撮った写真】は違うんだ。」という意味のことを熱く語ってくれた。

ネット時代の写真の著作権についても話した。以前noteの投稿「なぜ撮るのか」の中で記したが、著作権についての誤解が多いことについて不遜ながら意見が一致した。私は嬉しかったが田沼さんも嬉しかったのではないかと自負している。

3年前?だったか、先に書いた田沼さんの相棒である藤村さんが亡くなった。大正生まれだから90歳を超えていた。お別れの会で田沼さんは藤村さんの豪快なエピソードやサンテレフォトの思い出をたっぷりと話した。

そして今年、藤村さんより4歳下の田沼さんが逝った。終戦直後から現代にかけての写真の世界をよく知っている人と親しくできたのは私にとって財産だ。私は田沼さんの意志を次ぐほどの大人物ではないし、電子書籍やnoteやインスタという細々とした場所ではあるけれど、意見を発していきたいと思っている。写真について多少は知っているつもりだ。

田沼武能さん。
2022年6月1日没。
写真の日に亡くなるなんて、なんだか田沼さんらしいなあ。

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写真は1992年10月撮影のサンテレフォト。
ちょうど30年前か。


電子書籍
「カメラと写真」
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%89%AF%E4%B8%80&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=4P8ICTVTZ5Q0&sprefix=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%89%AF%E4%B8%80%2Caps%2C174&ref=nb_sb_noss_1

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