復帰六日目。哲学入門
六日目ともなれば、もう慣れたもので。
勤務自体は淡々とこなせる自信が回復してきました。
通勤は、やっぱりダメだ!
昨日も触れた「勉強の哲学」。朝の通勤電車で読み終えました。
哲学っていうと、何を思い浮かべますか? ソクラテス?
豊かな髭をたくわえ貫頭衣をまとったおじいちゃんたちが、象牙の塔で侃々諤々の(いや、あるいは飄々と)議論を戦わせている姿が、なんとなしに浮かびます。
アキレスは亀に追いつけない。
飛ぶ矢は飛ばない。
なんというか詭弁を弄び、相手を小馬鹿にしてケムに巻く。
そんな悪いイメージも、なくはない。
いずれにしても、哲学。
現実の世界で動くお金・実学とは正反対を指向する、いかにも学問然とした学問。そんなイメージが、僕にはあります。
* * *
さて、勉強の哲学。
一言であらわすのが難しいのですが、僕が興奮でフゴフゴ鼻を鳴らしながら読んだ箇所をあらためて考えると
「僕たちはなぜ学ぶのか」
が書かれている本です。
実践編(パート2)とされる第4章で「どのように学ぶか」が具体的に示されるので、ここを拾うのもいい。現代の哲学用語で学びを表現するならこう言えるという基本が前半パートで書かれている。
ツイッターでも以下のツイートにぶら下げて色々書き散らしたけれど、僕の問題意識にとって、たいそう刺激的な本でした。僕が僕の悩みを抱える「いま」、ちょうど出会えた。そんな感じの本でした。
* * *
ところでサブタイトルの「来たるべきバカのために」。
読めば、こう書かざるを得ない、とてもストレートで正直で真摯な表現だとおもうのだけれど、やっぱり、どうにも「悪い」印象を与えている感が拭えない。
キャッチーであることを狙ってあえて露悪的な表現を選んだのかもしれない。(そうだとすると、なおのこと頂けない)
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P.178
勉強の順序としては、複数の入門書→教科書→基本書、となります。
P.176
入門書によって、勉強の範囲を「仮に有限化する」のです。
P.182
授業を聞くときのポイントは、多くを吸収しようとすることよりも、教師が「いかに工夫して少なく教えているか」に敏感になることです。情報の有限化がポイントなのです。
教師は、まずは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれると存在である。
P.178
教科書は、基礎から発展的な内容まで網羅的に書かれています。(略)読み通すものではなく、辞典のように「引く」ものと捉える。最初は、目次を眺めるだけでもいい。その分野のテーマや概念が、ざっとわかります。
同。
基本書とは、まずは、入門書や教科書に重要なものとして繰り返し出てくる文献
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「空気」や「ノリ」で楽しく大騒ぎする真似・保守の時期があり、
そこで要求される規範(コード)に疑念を抱き深掘りする時期があって、
複数のコードを身につけて複数のコードを接続し展開する時期があって、
深掘りにせよ横展開にせよ限度・節度を知る時がくる。
最終的に自分という存在が自分であるがゆえに捨てられない「こだわり」とともに、いずれかのコードを要求する環境に立ち戻る。このとき、何も知らないで騒いでいたバカと、たくさんの学びを身につけた自分なりのこだわりで踊るバカ(来るべきバカ)と、傍目には同じようにバカに見える。
何も知らないでいて純粋無垢に楽しむバカもいるだろうし、その聖性はきっと僕には眩しすぎて直視できない。
すでにある程度まで学んでしまった僕は、貪欲に学び続けるだろう。けれど、その学びによって多様な世界を繋いで見ることができるようになり、もっと広く突飛のない言葉遊びができるようになる、はず。
そういう世界に辿り着くために。
僕が僕のこだわりで、僕を救うために。
僕は明日からも学び続けようとおもう。
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