見出し画像

復帰十一日目。双極性について

そろそろ「復帰X日目」でタイトルを揃えるのに飽きてきた。なにしろ、別段仕事ができなくなっていたわけではないから、あたり前に日々の業務はこなせる。

辛いのは通勤と、それから「残業なし」で働くこと。そしているべき時間、きちんと在社しろ、というところ。

なにしろエネルギー切れによる「鬱」でドクターストップがかかったわけではない。むしろその逆。歯止めがきかない「躁」で、しばらく仕事から離れたほうがよい、という判断があった。(と言いながら、落ちかけの兆候もあった)

そういえば診断書を提出して休みに入ったあたりで「オレが躁になりまして」という話を書こうかなどと、半ば本気で考えていたことをおもいだした。(もちろん「ツレが鬱になりまして」のオマージュとして、だ)

「鬱」というキーワードはずいぶん市民権を得たとおもう。新型うつ、なんていう単語も発明された。けれど「双極性」という適応障害があることは、どの程度知られているのだろうか? どん底まで落ちて身動きがとれなくなる鬱と正反対の、万能感にあふれ暴走機関車のように走り続ける「躁」という状態があることが。

たいていの人にだって波はあるとおもう。うまく行くとき、行かないとき。「なんだか調子が悪いなあ、疲れてるのかな?」、から、「お! 最近なんかツイてるなあ!」というグラデーション。双極性障害は、その波が極端にふれる。

最高! オレは天才! 何をやってもうまくいく!
そういう万能感。睡眠時間を削り、周囲の迷惑を顧みず没頭する。エネルギーが底をつくまで動き続ける。電池が切れたら眠って充電、目が覚めたらまた没頭。

その時の処理能力の高さたるや実際なかなかのもので、ある程度距離をおける人からするとなかなか便利に見える。しかし身近な人にとってはすごく迷惑なことだ。一番堪えるのは、その天才性による鼻持ちならなさと押し付け。活動量も半端ないので振り回される。

そして甚だありがたくないことにこの暴走列車は、早晩ガス欠を起こして谷底に落ちるのだ。絶望のどん底、鬱の地獄に。

結局のところ、一個の人間に与えられたエネルギーは無尽蔵ではない。躁のときの溢れるような高揚感と万能感は、僕の経験からいえば、ツケ払いだ。数ヶ月、悪くすると数年単位の命の前借りだ。

だから、なにかのきっかけでつまずくと早い。

そこからは一転、地獄めぐり。自分がしてきたことの記憶はある。反省するだけの知性の持ちあわせもある。そして悪いことに、そのときになって動くエネルギーが「まったく」ない。空っ欠。

思考の空転。状況を分析し自分を責め、気がつくと過ぎ去ること数時間。自分の不能に、動けないことに立ちすくみ、気がつくと涙が流れていることもある。でも、感情が動かない。体も動かない。役に立たない、不能・不全感だけが頭の中でぐるぐる回り続ける。思考が堂々巡りのループを続ける。そして冷静に、自分のクズさ加減をじっくり味わい、「消えた方がいい」という一点にたどり着く。

ただ、この時点では大丈夫。

なにしろ感情が動かない。
感情が動かないというのは体が動かないということだ。
だから、この後。
セロトニンが合成され(あるいは投薬による補充で)、ある程度まで感情が動き始めたとき。

衝動的に、行ってしまう。

* * *

まあなんだ。

今回の休養はそちらの谷底の方でなくて、山頂付近からのくだりはじめがわかってきたあたりで心療内科に飛び込んだ。初診で「休みましょう」と診断書を書いてもらえた。

この意味で、ずいぶんマシな判断ができたとはおもう。

でも、できれば暴走せずに、
家族に不安を感じさせず、
そして暴走による抑圧をせず、
ほどほどの暮らしができるように。

自分で自分の手綱を握っていられるようで、ありたい。

一方で、あのときの万能感と疾走感、
どこまでも走っていけるようなあの感覚、
あれを手放したくはない、という気持ちもある。
麻薬中毒に陥ってしまった人の感覚に似ているんだろう。

一度、知ってしまった喜び。
2度と手に入らないと知らされたら?
あるいは「わたしたちのために止めて」と懇願されたとしたら?

ひょっとしたら再び手が届くかもしれない。
手に入れられるかもしれない。
その誘惑が目の前にあって、
僕は、それをきっぱりと拒絶できるほど
強くあり続ける自信は、ない。

この note をはじめるにあたって書いた。

僕はいろいろなことを日々、考える。いろいろなことを知りたい。僕はプロメテウスに、なりたい。あるいは右目を代償にミーミルの知恵の泉を飲んだ北欧の神オーディンに。

全知を手に入れられるかもしれない、その可能性を示されて、僕は目を背ける自信が、ない。
蝕のとき、覇王の卵を手に「……げる」と言ってしまった彼のように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?