「またその話」
妻が言う。
「また話し方の話になった。
いま、それを話すときじゃないでしょう?
正直、あなたへの話し方の話になると辛いの」
僕が、たびたび、繰り返すからだ。
そういう言い方はやめてほしい。
〜なら〜と言ってほしい。
あなたは何にしても言わずに済ませようとしすぎる。
僕は言ってもらわないとわからない。
僕の「こだわり」が度を越している部分は、あるのだろう。
ひょっとすると、他人よりもたくさんのこだわりがあって、
ひょっとすると、たいていの人には理解されにくいもので、
だから、何気ない会話をしていたつもりの彼/女らは驚き面食らうのかもしれない。
ただ、これを考えてみてほしい。
「また」その話になったになったのは、それは、そこが僕の大事な宝物だからだ。あなたがたが僕の宝物をいちいち無作法に扱うから、僕は何度もなんども繰り返し、その話を「また」しなくちゃならないんだ。
いまそれを話すべきときかどうか。その言葉が出るのは、あなたがたの価値観で判断すると重要度が低い、そういうことだろう。
でも、僕はいままで繰り返し大事だと、あなたがたがうんざりするほど繰り返してきた。
対してあなたがたは、いままでも「無価値」だと断じてきた。
けれど僕は、一度としてそうだとは同意していない。
それは僕の「宝物」だ。
「僕の無価値なゴミ」で「また」あなたがたの貴重な時間を食いつぶそうとしている。あなたがたが主張を繰り返すたびに、僕のこだわりはより強化される。それは、僕の宝物だ。あなたがたには見えないだろうけれど、僕が僕であるための、欠かしてはならない僕の欠片だ。
「ゴミだなんて、そんなことは言っていないでしょう?」
たしかにね。
表には言っていない。
でも、裏に隠れていることは、そういうことだ。
僕は、そのように感じている。
* * *
僕には僕の世界の捉え方がある。
僕が僕のやり方で積み上げてきた、僕独自の箱庭がある。
僕の考え方。
僕の部屋、
僕の家、
僕の庭、
僕の玄関に通じる道。
僕の家のドアの前に立ってノックする、それまでに。
あなたがたが「大事」だと感じる価値観を叫びながら、
あなたがたの目には映らない道をはずれて庭を踏み荒らし、
あなたがたの目には入らない花を雑草同然に踏み散らし、
「わたし(たち)の話を聞け!」
そうやってドアを叩く。
部屋に閉じこもって顔を出したがらない僕に投げつける。
「おまえの価値観はクズだ!
いまはそんな時じゃないぞ!
横にうっちゃれ!」
ねえ?
それはあまりに乱暴じゃない?
* * *
もちろんこれは裏返しで、
僕が、あなたがたの庭を同様に踏み荒らしている、
そういう話でもある。
* * *
一昨日読んだばかりの「勉強の哲学」に沿って、状況を考えてみることができるだろう。
「勉強の哲学」によれば、
「なぜ」という懐疑の連鎖ですべてを破壊することができる。
「そういえば」という連想の連鎖ですべての意味を飽和させることができる。発散による飽和の連鎖と、逆向きの縮退による連鎖もある。
懐疑・発散・縮退。
いずれにせよ、無限回の操作を繰り返すことで、環境によって立つ「言葉」の意味の世界は崩壊する。
それを「ほどほど」で断ち切り、意味の崩落を食い止めるのが「こだわり」という機制だった。
僕は、僕自身があやつることばで、僕の世界を、僕が現実とやりとりする界面をつくりだしている。僕は僕の中に閉じこもって、「僕のことば」で僕の世界をつくって遊んでいる。それが僕のこだわり。
でも、このこだわりは、僕が僕の中にとどまることを要請する。
このままでは僕は僕でしかない。
僕の世界から出て、違う世界を「学ぶ」ことができない。
僕は、僕をいったん宙吊りにしてやめて、
あらたな「わたし」で世界を眺めてみる(自分を縛る呪いのようで「べき」は嫌なのだけれど)べき、
なのかもしれない。
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