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Episode36 『いかがわしい男⑩』

付き合って8年、同棲5年、という友人ゲイカップルと酒を飲んできた。

さすが、オフィシャルな関係を5年も続けている内縁の夫婦(夫夫?)は、貫禄が違う。
言葉を交わすことなく、絶妙なタイミングでグラスを片付けたり、お互いの食べたいものや飲みたいものを把握して勝手に店員さんにオーダーしたり、「明日税金払わなきゃ」みたいな所帯じみた会話をしている。
この国でも同性婚ができるのできないのという議論がなされるようになって久しく、まあ難しいことは俺にはわからないけれども、「こ、これこそパートナーというものだなあ」としみじみ思った。早く結婚させてやれよ、国。この2人はちゃんと税金払ってるんだからさ。(お、俺だって払ってるよ!)

そら長く付き合えば色々あるだろうが、彼らがそんな山あり谷ありの道を手を取り合いながら歩んできたであろう8年という歳月に、畏怖を感じずにはいられない。

俺はその間何をしていたかといえば、概ね3ヶ月スパンでいろんな男とくっついたり離れたり、軽薄で不実な関係を結んだり、そしてそんな男たちすら途切れると、件の10年来の愛人を呼び出してさらに享楽の淵へと沈み込んでいたのだった。その間、特に成長はない。

Episode36 『いかがわしい男⑩』

「これぞ、愛って感じだねえ」

友人カップルの片方がトイレに行っている間、もう片方が相方のグラスについた水滴をお絞りで拭いているのを見ながら俺は言った。

「愛じゃないよ、これはね、習慣」
「そのふたつは違うのかね」
「…話を聞く限り、りょうくんにはわからないだろうね。これは褒めてるんだけど」
「どういう意味?」
「俺たち、キスもセックスも、してたのは最初の一年だけだよ」

頭の上にタライが落ちてきた気分だった。
そ、そんな。いや、まあ、話には聞いたことあるけど。オフィシャルに男と長く付き合ったことがない俺には、いまいち実感のない話だった。

「え、じゃあ後の7年は、本当にその、一度も…?」
「うん、一度も」

「ではその間、なんていうかその、そっち方面のことは、あの、どのように…」というような言葉が口から出かかって、でもなんだか答えを聞くのが怖くて、それをそのままメガハイボールで飲み込んだ。

「りょうくんさあ、随分その男に入れ込んでるみたいだけども、恋人になりたいわけ?その男との、こういう未来想像できる?」

できなかった。
あの男、というか、どの男とも想像できなかった。
俺にとって恋愛とは常にドキドキハラハラ、脳内麻薬バンバン放出、BGMはいつでもサザンの『LOVE AFFAIR〜秘密のデート〜』って感じのものだからだ。
己の中にある遺伝子を震わせ、血を沸騰させるもの。それが男との情事。

「だからつまり、そういうことだよ。いいじゃん、今のままで楽しいんでしょ」

そういうことって、どういうことよ。
茫然自失としている俺の前に、トイレから帰ってきた片割れがどかっと腰を下ろす。
さりげなく、ごく自然に、互いへの気遣いや労りを感じさせる2人の姿が、なんだか荘厳な宗教画のように見えた。
2人が宗教画なら、俺とあいつの関係は便所の落書きだろう。上見て、右見て、下見て、馬鹿が見る、ってか。
近いうちに、パートナーシップを結ぶんだそうだ。おめでとう。お祝いに食器でも贈らねば。

「と、いうようなことがありましてね」
「ふーん」

男の家の台所で俺がタバコを吸い、男は歯磨きをしていた。

「習慣の方が、愛より重いんだって」
「ふーん」

1ミクロンも興味ない、というような顔で男は歯を磨き続ける。

「右の奥歯ばっかり磨かないで、前歯の裏とかもちゃんと磨きなさい」
「ふあい」

俺がふと視線下ろすと、男の足の指が視界に入った。

「お前、ちゃんと爪切れよな。そのきったねえ巻き爪なんとかしろよ」
「ガラガラガラ…ペッ。あのさあ」
「なんだよ」
「今のじゅうぶん、奥さんっぽいよ。ちょっと口悪すぎるけど」

愕然とした。た、確かに…。
どうしよう、もうこいつは俺のことなんか抱きたくないとか言い出すかもしれない。だってそうなんだろう?人は夫婦になったらもうキスもセックスもしなくなるんだろう??
でも男はいつの間にかちゃんと俺の腰に手を回して、けしからんことに下着に手を突っ込んで俺の尻を撫で回していた。
動揺した俺の口から出てきた言葉は。

「デンタルフロスもしなさい」

俺たちは大丈夫だ。俺は自分に言い聞かせる。
どれほど年月が経っても、たとえ関係がこの先どうなっても、一緒に居られる限りはこうして笑いながら、不埒にも尻を撫で回したりするだろう。
それによく考えたら、あっちは8年だが、こちとら10年だ。
10年…何度か間が開いた時期があったとはいえ、よくもまあ飽きずにこんなことを続けるものだ。恋人でも、夫婦でも、パートナーでもないけど、まあ俺たちには俺たちにしかわからない繋がりや縁みたいなものがあったりするんだろう。…多分。

「あれ」

俺は男の手に握られた赤い歯ブラシを見て、頓狂な声を上げた。

「え?」
「それ、俺の歯ブラシなんだが」
「えー違うよ、これは俺のだよ。りょうのは青でしょ」
「違う逆だよ、俺が赤でお前が青だよ」
「あれ、そうだっけ。だからいつも赤の方ばっかりすぐダメになるのか」
「きったねえな、いい加減にしろよ」
「大丈夫だよ、俺たちもっとすごいところも口に…」
「やめろ、言うな言うな」

確かに、とても恋人や夫婦の会話ではない。でもこの男といるのは何よりも楽しいし、楽だ。
しかし楽しければ楽しいほど、いつか終わってしまう気がするというような、そんな危うさに怯える夜が、こいつにもあるのだろうか。俺は怖くて訊けないでいる。
お祭りはいつか終わるからお祭りなのであって、終わらないお祭りがあるとすればそれを人は地獄と呼ぶのではないだろうか。

まあとりあえず、新しい歯ブラシを買いに行こう。手を繋いだりなんかして。
これがお祭りなのか地獄なのか、考えるのはその後でもいい。

つづく

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