見出し画像

Episode31 『ヨガインストラクター』

「お前は本当に体が硬いなあ」

20代の頃、情事の後の男に、不満げな表情でこれを言われてからというものの、俺は日々の柔軟運動に余念がない。
どういう意味かは察してほしい。

確かに、ふにゃふにゃによくほぐれた股関節は、情熱的な恋愛関係を生み出す、重要なファクターのひとつだ。
だけど、恋愛にはもっと大事なものがたくさんあるだろう。
それはそう、例えば、運命的な邂逅の衝撃、とか。

Episode31 『ヨガインストラクター』

ある退屈な平日の昼下がり。
俺はいつものようにマダムたちに混ざって、スポーツジムのスタジオでホットヨガのレッスンに興じていた。
その日は確か天気があまり良くなくて、突発的な雨が降り、雷鳴が轟いたりもした。

「雷まで鳴って、いやあねえ、怖いわねえ」

レッスンの前後、いつも世間話をするマダム1は、俺の隣にヨガマットを敷きながらそう言った。

「避雷針がわりに旦那を横に連れて歩いてきてきたわよ〜」

マダム1の親友で、レッスンの後は必ずファミレスで赤ワインをたらふく飲んで運動効果を相殺させるのが趣味という、マダム2がその更に隣にマットを敷きながら豪快に笑った。

適当に相槌を打ったが、しかし俺は雷が嫌いじゃない。
米津玄師の『感電』という歌の歌詞に「稲妻の様に生きていたいだけ」というフレーズがあって、それがとても好きだったから。
俺も雨雲を引き裂く稲妻のように、鋭く生きたい、と良くわからないが深い感銘を受けたものだ。

レッスン開始まで3分。俺は下を向いて膝の柔軟を始めた。高温多湿の薄暗いスタジオは、まるで亜熱帯のジャングルだ。じんわりと汗が滲む。目を閉じると、かつて恋仲だった、母国に帰ってしまったタイ人の男を少し思い出した。向こうの雨期とかはこんな感じなんだろうか。元気でやっているといいが。

扉が開く気配。足速に誰かが入ってくる気配。

「本日代行インストラクターの※※です〜」

男の声は囁くように静かで、名前をうまく聞き取れなかった。
声の主は、いつもの若い女の先生は電車が遅延していて来られないので、急遽代行でレッスンをすることになったという様なことを言っていた。
俺は顔を上げた。むせかえるように暑い、薄暗いスタジオの中を、音もなく稲妻が走ったかと思った。タイ人の男の面影はその向こうに霧散した。さらばだ。

そこには世にも美しい、あまりにも美しい、ひとりの男が立っていた。

すらりと伸びた手足、無駄のない身体、少し浅黒い肌、天然なのかパーマヘアなのかわからないがクシャクシャに無造作な髪。
はにかんだような笑顔。歳のころは俺よりも2、3上と言ったところか。
湿気に張りついた前髪を、優雅な仕草で手で払っている。

「いい男ねえ」

マダム1が小声で俺に言う。俺は呆然と頷く。
その男の姿は、確かに圧倒的だった。ヴォーグの中に登場するパリコレモデルかと思った。

レッスンは全然集中できなくて、いつもなら簡単に決めるポーズを、俺は何度もトチった。
片足で立つなんてことが、こんなに難しいなんて。いい男の存在が、これほどまでに俺の集中をかき乱すとは。

そんな俺の手足を、いつの間にかそばに立っていた男が支える。
や、やめろ、そんな優雅な指先で俺に触るんじゃない!
もっと綺麗な服でくるんだった。ズボンなんか高校の時のジャージをハサミで切って半ズボンにしたやつじゃないか。

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

ひい!急に耳元で囁くな!

「ゆっくりで大丈夫」、か。
俺に体が硬いとか文句を言ってきたあの男も、せめてこういうセリフを吐くべきだった。

そんなことを考えながら、俺は平静を装いながらレッスンを続ける。
いつもよりたくさん汗が出て、水を飲んでも飲んでも乾きが癒える気がしなかった。

「じゃあ次は四つん這いになって」

これはあの男も言ってた気がするが…。

「肛門括約筋を…」

やめれ!!!!!!!

50分のハードなレッスンと、心かき乱す男の言葉の数々に、すっかりふにゃふにゃになった俺の関節と心。だけど全身のチャクラは喜んでいた。

最後にスタジオを出る時、一瞬だけ彼と目があった。彼は手を揃えてただひと言メロウな声音で「ナマステ」とだけ言った。
なんてセクシーなナマステでしょ…。
彼の汗は、チャンダン香のいい香りがした。

「ねえりょう君、あんたもたまには一杯付き合いなさいよ〜」

マダム1と2に(真っ昼間から)デキャンタのワインをお酌しながら、俺はまだぼんやりと痺れの余韻に浸っていた。
それはそう、まさに雷に打たれて「感電」したかのように。
赤ワインのカロリーでヨガの運動効果は相殺されてしまったが、俺の中には鋭い稲妻が残った。

その後、よそのジムから一度来ただけの代行インストラクターだった彼とは会えていない。
聞き取れなかった名前も結局分からずじまいのままだ。
「なんだったかしらねえ、なんだかひどく変わった苗字だったから忘れちゃったわ、アハハ」と、これはマダム1の談。

わずか50分だけの邂逅。しかし俺の中には闇夜を切り裂くほどの稲妻が走った。
そして彼とは、またいつか、どこかで会えると俺は信じている。
だってあんなにセクシーな「ナマステ」を口にする様な男と、俺がもう2度と会わないなんて、そんなんこと、俺は信じない。
なぜなら、俺だって彼に負けないくらいの、稲妻を持って生きているはずだからだ。
電気と電気、衝撃と衝撃、色気と色気、情熱と情熱、そしてスタンド使いとスタンド使いは、必ず呼び合うのだ。

ヨガをもっと極めて、一段階上の人間にアセンションすれば、また会えますか。ナマステ。

つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?