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机の謎と恋

 机はどうして『つ、く、え』というのでしょうか。幼い頃から、そんなことばかり考えてる子供でした。
 小学校に入学して、はじめての授業参観日、教室の後ろにはたくさんの父母がいました。
先生が「この答えが分かる人。」と黒板を指差すと、クラスメートの皆が一斉に手を挙げ始め、アピールを始めます。私はいつも通り、机がなぜ『つ、く、え』なのかを考えます。授業中一度も手をあげなかったのは私しか居なかったらしく、休み時間になると、両親は怒りました。
 私には、手を挙げて答えるよりも、机がなぜ、『つ、く、え』なのかその方が重要でした。どっかの山で木を切り、組み立てられ、この教室まで運ばれてやってきたものが、どうして『つ、く、え』と呼ぶのでしょう。それは大学を卒業した今でも分かりません。
時には『つ、く、え』じゃなく、『お、は、し』だとか、『ぞ、う、き、ん』だとか、学校の中のものを見つけては考えます。その度にあてのないの考えが巡り、授業終わりのチャイムがなって我に返るのでした。当時の私に、言語学の発音上『つくえ』が適していたなんて言っても、まるで納得しなかったでしょう。時が過ぎ、どんなに算数を勉強しても、どんなに利口になっても、『つ、く、え』は解決できません。考えても考えても、自分の納得できる答えが出ません。そんなことを子供ながらに分かってきました。それでも、答えの出ないこの類の問題を考えるのは、私にとって安らぎのような意味がありました。
 私には考えても考えても苦痛の難問がありました。死んだらどうなるのでしょうか。このことを考えるとただゾッとし、恐怖で身が悶えるのでした。死というのは、暗闇にいる感覚が永遠に続くもの。いいえ感覚なんてないかもしれません。なんの考えも浮かびません。夢を見ないで寝ているような真っ暗な無の時間。途方も無い時間という感覚すらないかもしれません。きっと色も匂いもありません。何も生まれなくて、とても静かな場所。いいえ、静かという感覚すら感じられないかもしれません。お母さんにも会えない。本当に何もありません。そして何も無いということすらないかもしれません。  考えるたびに、どんどんと無の恐怖が連想され、これより怖いものは、考えられないのでした。死について考える度に、寝るのが怖くて、寝ている間に死んでしまったらどうしようと、毎晩不安になるのでした。死を理解するには死んでみるしか方法はなく、でももし死んでみて、永遠の暗闇に落ちてしまったら、ただ無限の時間が過ぎています。この恐れを解決することは不可能に思えました。死について考えることは幼い頃の私には耐え難い恐怖でした。死から逃れるすべだったのでしょうか、同じようなあてのない問い、『つ、く、え』には、安心感を覚えたのでした。
 しかし、いつしか「つ、く、え」を考えるのをやめました。決して、退屈したのではありません。他にやることができたのです。それは恋でした。恋をしている時、生きていることを輝やしく思えたのです。


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