下駄箱と靴箱。
「下駄箱の鍵は持ってね」と、番頭のおじさんが一言。
下駄箱、かぁ。
ふと、この人にとっては"靴箱"ではなく"下駄箱"なんだな、と思いました。
行き先がお風呂なわけで、下駄を履いてくる人もゼロではないのは確か。ですが、我々現代人の両足は、ほとんどの場合、靴に包まれています。
そう考えると、おじさんの言う下駄箱は、実質的には"靴箱"であるはず。
でも、おじさんが下駄箱と言うのであれば、それは下駄箱なんですよね。
言葉が死ぬとき
そんなことを考えていると、なんだか急に怖くなってきました。
かつて私たち日本人の足元を支えてきた下駄ですが、今日では、西洋から渡来した靴に取って変わられています。
そして、下駄という物の存在を知る人自体、これからどんどん減っていくのでしょう。
下駄を知る人がひとりもいない世界では、おじさんが言う、「鍵は下駄箱へ」は、きっと誰にも通じない。
そのとき、"下駄"という存在は完全に死んでしまうんじゃないか。
なんか・・・悲しいな。
と、すこし虚しい感情が去来。これが諸行無常というやつでしょうか。
記憶の中で生きる
そんな塩梅で空虚さを感じていたところ、逆説的に気づきがありました。
例え肉体が滅んでも、誰かが覚えてくれてさえいれば、それは生きているということ・・・なのかもしれない。
よく言われる考え方で、めっちゃ、今更な気づきですよね。笑
でも、今回の体験を通して、妙にしっくり来てしまったんです。
ということで、もっと多くの人や物事にふれて、できる限りいろんな記憶を残し、誰かに伝えていこう。
と感じたので、備忘として記します。
願わくば、自分も多くの人の記憶に残れますよう。
おじさん、気づかせてくれてありがとう。
よければ今度、お名前を教えてください。
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