愛する家族を亡くして

昨日、ペットの猫が亡くなりました。
今の気持ちを忘れてしまう前に正直な想いを残しておこうと思い今書いています。あとは書くことで気持ちの整理がついてくることが多いので、それも兼ねて。

まず、亡くなった時に悲しみと同じかそれ以上に本当にありがとうと思えたこと、出会えてよかったと思えたこと、そしてそれを伝えることができたこと、本当に良かった。今までありがとうね。って書きながらやっぱりさみしくて悲しくて涙がでます。

今、実家に一人でいますが誰もいないときに二人でのんびり過ごす時間が本当に好きで。抱っこが好きでいつだって自分の腕の中で寝てくれたこと、そんな気分じゃないときはちょっと離れたところで毛繕いしてて、近くにいてみてるだけで幸せな気持ちにしてくれたこと、冬に寝るときに布団の中に入ってきて一緒に寝てくれえたこと、すべてが本当に大好きでした。

6月に病気がわかって、余命一か月といわれてから約四か月でした。最後は今は離れた場所に住む姉と僕の帰りを待ってくれて。一昨日家族そろったときは、あれ?まだ元気だなぁなんて思うくらいでした。母親が離れた子供のために動画を撮ってくれているのですが、それを後で見てあの時は相当頑張ってたんだなとわかりました。そんな母にも本当に感謝しかないです。

一昨日の夜に急に動かなくなって、近くを通ったり見るだけでシャーっと威嚇するようになりました。今まで一度もないような激しさで。悲しかったなぁ…あのときは何を考えてたんだろう。わからない。でも、一人になりたいみたいだったからみんなで上の階に行って、ああ、そういうことなんだろうなと覚悟を決めました。

翌日朝にみんなでゆっくり様子を見に行ったら、かすかに声が聞こえて。本当にうれしくて。生きてくれていることがこんな素晴らしいのかって思いました。でも、もう自力では一歩も動けない状態で辛そうで。でも、なんだかもう少し生きるような感じもして。でもやっぱりなにもわかってあげられなくて

自分のやることもあるからといって昼前から外へ出てたところに、母から連絡がありました。

余命宣告もされたし、そこから真剣に向き合って覚悟はしていたつもりだったのに、その存在がなくなってしまったということが信じられなくて。家についてだらーんとしているあの子の姿を見て、本当に胸が苦しくなりました。

そこから、体が汚れていたので母と一緒に洗ってあげました。だんだんきれいになって、毛並みも整って。少しづつ落ち着いてきました。

そこで初めて生命が尊くてはかないことを肌で実感したように思います。本当に命はなくなるし、死んでしまったら動かなくなる。だんだんと体のぬくもりが引いていって、硬くなっていく。その感覚は鮮明に感覚として残っています。
生きていることは奇跡的なんだ、と。そんなことも教えてくれたのかもしれません。


少し、自分のことも書きたいと思います。この子が余命宣告されて一か月が経った7月から、正直かなり精神的にきつかったです。
いつまでもつのか、本当は毎日でも帰りたいけど自分のやることもあってそんなわけにもいかない。でも何をしていても頭に浮かんで集中できない。大事な受験も八月にあって頑張らなきゃいけないのに、そしてそのことを相談できる友人が近くにいなくて。そのことについても悩んで。
八月に入ってコロナにかかり、九月や十月にも別の病気で体を壊し、会いに行きたいのに行けないし、学校のこともできないし、なにやってんだろう。どうしてこんなにつらいことが続くんだろうって思いながら。
だんだんと心に余裕がなくなってずーっともやもやが続いている状態でした。

だから、正直今回のことはかなりきついです。でも、今は切り替えられる感じがしてます。苦しんでいたことはそれだけあの子を愛していて、真剣に向き合えていたってことだなと今は思えるし、今回のことは「なんでも大丈夫だから前を向いて生きなよ」っていうメッセージのような気もして。何より自分が幸せに生きていないとあの子が悲しむだろうなと思って。だから少しだけ休んでから、また歩き出そうと思います。


命の尊さだって、誰かを愛することの幸せだって、出会えていなかったら気づけていなかった。本当に今までありがとう。
でも、さみしいな。また膝の上でふかふかであったかい体をなでてたいな。
ありがとうね。出会えて、一緒に過ごせて本当に楽しかったし、幸せだったよ。

今日からも、幸せに生きます。本当にありがとう。




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