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したくてしている、ただそれだけ。

優しさってなんだろう。
優しいってなんだろう。

そんなことをふと考える。

きっとこれまでにも何度か考えたことがあるテーマだろうけど、
頭に”?”が浮かぶということは自分の中で本質的に結論が出ていないということなのかもしれない。

それに、何事も考え続けることに意味があると思っていて。
「諦めたらそこで試合終了ですよ」じゃないけれど、
「考えるのをやめたらそこで思考停止ですよ」(あれ、同じこと2回言ってる?)だと思っている。

数学の証明問題でもない限り、
結論っていわばその瞬間でのベストアンサーで。

時間が変わればベストアンサーも変わるから、瞬間瞬間のベストアンサーと向き合うのは悪くない、むしろ必要だと思っている。

そういった前提に立ったうえで、優しさってなんだろうと考える。

これはあくまで私の感覚だが、

優しさって「する」側が決めるものじゃなくて「受け取る」側が決めるものだと思っている。

というよりかは、「してあげてる」ものじゃなくて「したくてしてる」ものな感覚がある。そしてそれが優しいのかどうかなんてわからない。

もう少しわかりやすく表現すると、
嫌々優しくしているとかしょうがないから優しくしているというよりかは、心からくるなんとかしてあげたい、のような本質的な○○してあげたい、という感覚からくるもの。

そこに見返りは求めていない。
求めていない、は語弊がある。
なぜなら見返りを求めて行動することも悪くないと思っているから。
むしろそういった行動も自分を守るために時に必要だと思うから。

したがって今回の場合で言うと、
「見返りがあると思っていない」というか、自分発信の単独行動だ。

だから別に自分が行った行動に対して「ごめんね」はいらなくて。
「ごめんね」を言うなら「ありがとう」の方がうれしくて。
そもそも言葉もいらなくて。
自分の「優しさ」を受け取ってくれるだけで自分としては十分

そんな気がしている。

上の”「優しさ」を受け取ってくれるだけで自分としては十分”という言葉を打ちこんでいて思ったんだけど、「する」側としては自分の行動を受け取ってくれた相手に対して「優しいな」と感じることだってある。

そう思った時に、ある言葉が頭をよぎる。

それが、

「優しさを受け取るのも優しさ」

という言葉。

動詞て頭をよぎったのか。調べてみるとあるテレビ番組で岸田奈美さんが発言されていたらしい。さすが岸田さんである。

その流れでこの言葉に言及した岸田さんのTwitterを拝見すると、

どちらの投稿にも共感する。

優しさって「する」側が決めるものじゃなくて「受け取る」側が決めるもの。優しい人になろうとしてなるよりかは、相手の立場を想像できる人になりたいし、相手の優しさを受け取れる人でありたいと思った。


したくてしている、結果的にそれを相手が「優しさ」として受け取ってくれる。これほどウィンウィンなことはないと思っている。

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