「一緒に」が自分のキーワード
自分が何か行動を起こすとき、人に何かを教えるとき、どんなことを意識しているかなとふと考えてみた。
というのも定期的に行う内定者の子とのミーティング(という名のお話会)で、
「支援において何か意識していることってありますか?」
って聞かれたからだ。
たびたび登場するこの内定者の子シリーズ。本当に記事の題材として助かっている(笑)
例えば最近だと以下の記事とか。
少し話が逸れてしまった。元に戻そう。
内定者の子からきた質問に対して、自分が支援において大切にしていること、それは
「一緒に」
を大切にしている、と答えた。
一緒に考える、一緒に作業する、一緒に調べるなどなど。
自分がもしこの領域(今回であれば障害福祉業界であったり、支援だったり)において専門家だったらもう少しアプローチが変わってくるのかもしれない。
例えば「こうしたほうがもっとこうなる」とか「その原因は○○だからだ」とズバッと言えるだけの持ち前のものがあるのならそうしているかもしれない。ただ、そういったものが現状ない。
良くも悪くも、「何者でもない」。
だったら「何者でもない」という特徴を”いい意味で”使いたい。
ここにおいての「いい意味」は楽していない、、、はず(笑)
何者でもない自分はいい意味でまっさら。目の前の相手と同じスタートラインか、もしくは少し前を走っているくらい。同じ土俵の上にいる感覚。
このアプローチでいいんだ、と思えたのは農福連携をやっているB型事業所にいたときの成功体験が大きい。
普段結構作業をさぼりがちな方がいたんだけど、その方に対して「こうして」「ああして」と指示することはしなかった、というか出来なかった。明確な「こうすれば絶対理解してくれる」というビジョンが見えなかったから。
だけどそれでも働くことで工賃が生まれるのだから成果を出さないといけない。だから一緒に作業をした。役割分担をして、まずはその方が与えられている役割の中でやりたいことを選択して残ったほうを自分がやる。そうするといつしか「こっちもやる」と自ら別の役割を選択し、実行する様子が見えた。そして最終的には仕事をしっかりとやり終え、満足げな様子でお昼ご飯を食べていた。
それは移行支援に来ても変わらない。今もB型で経験したことが糧になっている。
正直、正解であったり正論であったりを言うのは簡単だ。
でもそれが本人の身に残るかというなかなか残らない。
本人の身に残るようにかみ砕いて言語化できればいいんだろうけど、自分にまだその力はない。
だから一緒に考える。一緒にどこがわからないか探る。一緒にどうすればいいか模索する。だけど同じ位置のまま話を進めていると平行線なのでほんの一歩二歩だけ前に出て、見えない糸で、本人も引っ張られているとは感じない程度の力で導く。感覚の話なんだけど(笑)
そうすることで「できない」が「できる」に変わる。
偉そうには言える立場ではないが、
私は常に目の前のその方の可能性を探っている。やればできる可能性があるのか、そもそもまだ「引き出し」がないか。
可能性があるなら出来るだけ「自分の力でできた!」と思える体験を味わってほしい。誰かに教えられて出来るよりも自分にも出来るんだと思えるほうが絶対に身に残る。
でもない「引き出し」をいくら探しても見つかることはない、かえって時間の無駄になることもある。そういったときは「教える」という選択をとる。
ここの見極めは注意深くやっていかないといけない。
本人の「できる」をこちらが奪っていないか、という点を。
じゃあどうやってその見極めを行うか。
やっぱり「相手を知る」に尽きるんだと思う。
どういった特徴で、どういった性格で、どういった強みを持っていて逆にどういった弱みがあるか。それは紙面だけでわかるものではない。
そこで立ち返るのが「一緒に」だ。
一緒にいる時間が増えることで見えてくるものがある。
お互いを知っていくことで見せる姿も変わってくる。
知っていくことで声掛けも変わってくるし、提案できる選択肢も変わってくる。
何もこれは支援に限った話ではない。
友達に勉強を教えるときとか、後輩に野球の守備を教えるときとか。なんだかんだ「一緒に」を大事にしていたな、と今となっては思う。
そうやって気づかぬうちに自分の基準と相手の基準をすり合わせることから始めていたんだな、と。
これからもこの「一緒に」は常に念頭に置いておきたい考えだ。
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