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他人の頑張りを見逃さない

皆さんにとって「頑張る」ってどういう存在だろうか。
このフレーズ、いったいどれだけの回数書いてきただろう(笑)
頑張りというのは実に抽象的な言葉だということは、これまでも何度も記事にしてきた。

「頑張る」「頑張れ」「頑張ろう」
活用の仕方は様々で、活用の仕方によって意味合いも変わってくる。

ある人は言う。

「頑張りというのは自分で評価するのではなく、周りが評価するもの」

ごもっともだ。自分で頑張っているつもりでも、周りが頑張っていないと評価したらそれは”頑張っていない”ことになる。

また別のある人は言う。

「頑張るというのは人に強制するものではなく、自分で自然とするものだ」

これも確かにごもっともだ。「頑張る」の定義が人それぞれ違う以上、誰かに強制したところで基準が違うのだからお望みの結果になるとは限らない。それに誰だって、頑張りたいこともあれば頑張りたくないこともあって、とっくに頑張ってるよ、と思うこともある。

それぐらい、すごく曖昧なもの。それでいて、すごく多用されるもの。

ただ1つ引っかかる部分がある。

「頑張り」の評価軸が第三者にあることは理解したうえで、世の中には報われなかった頑張り、なかったことになった頑張り、日常に溶け込んでしまった頑張りが無数にある気がするのだ。

何かに向けて必死に準備をしていて、だけどそれが途中でストップすることになり、多くの第三者の目に触れる前に消えてしまった頑張り。

多くの人の日常を回していくための支えとして励むも、それが日常であるが故に日常の中に溶け込んでしまい当たり前とされてしまう頑張り。

こういう時の本人の中に残る「やるせなさ」は、いくら頑張りの評価軸が第三者にあるからといって放っておいちゃいけないなと思う。

頑張ってくれている人がいるから世の中回っているし、頑張ってくれている人がいるから何不自由なく生活を送れている。頑張りって確かに目に見えるものじゃないけど、なかったことにしてはいけない。やっぱり頑張り屋さんが報われる世の中であってほしい。

そのために自分が出来ることってなんだろう。
結構難しいことだ。何か力があるわけじゃないし。
いろいろ考えたあげく、たどり着いたのは、

「人の頑張りを見逃さない人であろう」

ということ。

ニュースに取り上げられたり、何か話題になったりと「頑張り」が目に見えやすいタイプはいいと思う。そしてそれに対しても声を大にして称えたい。でも世の中の多くは、あんまり表立って「頑張ってます!」と言わないタイプのものが多いと思っていて。謙虚な人が多いから。

そういった「隠れ頑張り」にちゃんと気付いて、「ありがとう」「すごいね」「見てるよ」そんなことを伝えられる人でいたいなって思う。

そのためにも、
「ちゃんと見る、見渡す」「人に興味を持つ」
ここら辺のことはより一層大事にしていきたいなと。

自分が出来ることからやっていこう。


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