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KYについて今さら考えてみた

皆さんは「KY」という単語を覚えているだろうか。

KY=空気を読めない

今や死語になりつつもあるこの言葉だが、一時期ものすごく使われていた。

今思うと言葉が流行りだした当時は周りから見て場に合わない発言や行動をした人に対して、

「この人KYだよね」

といった捉え方があった。する側は無意識なのだが、される側が客観的に見てKYだと判断する。この構図が通常だった。

しかし段々と言葉が定着したあたりから、自分はKYにならないように意識しよう、という自分としての意識、主観としての意識というものも始まった気がする。

あるゼミの授業でこの「KY」のことが話題にあがった。

「KYという単語が一時期流行っていたけど、皆さんはどういった時にKYにならないように気を付ける?」

先生からそう問題提起された。

これは周りからの、される側の目線というよりも自分がしないように、という意識での話である。


大事な打ち合わせをしているとき、友達といるとき、先輩といるとき、などなど、、。

いくつか学生側の意見が出たとき、先生はこう言った。

「そうだよね。ということは、言い方は少しきついかもしれないけど、自分より劣位にいる人に対してはKYなんかは気にしていないよね」

劣位をどのように捉えるのか難しい部分はあるが、正直な気持ちその考えはありえないことではないと感じた。

劣位であるとはっきり認識した上でKYを気にしない、というケースは私は考えたことはないが、別にどう思われてもよい人だったり、中には自分より劣位だと思ってKYを気にしない人もいるかもしれない。

それは、その人にもし嫌われたとしても自分に特に害はないから、のような気がした。

そう考えると今までKYに抱いていた印象と今の印象が少し変わった気がする。

これまでKYに抱いていた印象はそれこそ「場の空気を読む」ということ。
その場の流れがスムーズに行くように、自分の感情を少し抑えて流れに任せる。そういったある種、周りに合わせる、ベクトルは自分より周りのためという印象だった。

しかし今回の先生の言葉を受けて、もしかしたら考え方が180度違うのかもしれないと思った。
自分の大事にしている人や関係を大事にしたい人、重要な場面ではKYしないよう意識する。そうではない場面ではKYを気にしない。

つまりKYするかしないかの選択は自分次第であり、自分のための選択、ベクトルが自分に向いているのではないかと感じた。

なんてこれまで自分たちは都合の良い選択をしてきたんだろう、それを自覚できていなかったんだろうと感じた。だから時折、貧困やいじめの問題に対して簡単に「自己責任だ」という自己責任論が出てくるのかな、と思ったりもする。

ただこれを自覚することは簡単ではないことも学んだ。
他者から気づきを与えられない限り、自分の意識ではそんなつもりではないのだから。

と、ここまでKYしてしまうことを気にしないパターンを考えてきた。しかしここにはもう一側面がある。

ここでいう「自分にとって大事な人、場面」に対して、KYしないようにしていればそれでいいのだろうか、ということだ。

それはどういうことか。
おそらく「空気を読む」ということは自分の中で思いついたことでも場を乱すかもしれないからグッとこらえるということ。「我慢をする」ということである。

ただ本当に自分の気持ちに蓋をして、我慢して、空気を壊さないようにしているだけでいいのか、という疑問もある。本当にいい関係であったりいい組織を築いていくためにはお互いの本音をぶつけ合う場面も時には必要なのではないか。そのバランスが必要なのではないか、と思ったりもする。

ここで肝心なのは自分の思いを「ぶつけっぱなし」ではダメだということだと思う。ぶつけるなかにも、相手への尊重であったり配慮だったり、そういった部分を忘れてはいけないのだと思う。

言葉であったり、人間関係であったり、組織であったりはどれも難しい。
確実な正解というのはあってないようなものだとさえ感じる。

だからnoteやTwitterやあらゆるWEBメディアでいろいろな人の考え方を学んでいきたいし、選択肢を増やしていきたいと再認識した。

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