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小さくても声を上げ続ける

Xにてこんな投稿をしました。
今日はちょっとこの投稿をさらに深掘りしていきたいなと思います。

「周りはなにも変わっていないのに、わたしの見え方だけが変わる。」

最近読んだ文章で、印象的なフレーズでした。
Xにも書いたけど、「ほんとそうだなぁ、、」と。

人間、当たり前だけど全知全能ではありません。
見聞きしたもの、触れてきたものしかわかりません。目に入った景色、それが自分の知りうる範囲の世界です。

だから、自分は知っているけどあの人は知らない、そんなことが多くあります。知っている人は知っているからこそ行動ができます。知っているからそれが大事だということがわかります。それが良くないことだとわかります。

例えば私は社会人になって就労支援に携わり、障害福祉の世界を知りました。そこで精神障害や身体障害、発達障害、知的障害など様々な方と関わっています。もっといえば、その中でも例えば脳卒中になり、失語症になった方とも関わっています。失語症にも、どこの部分に難しさがあるのかは人によってバラバラ。だからコミュニケーションの際は、短い言葉で伝えたりとか、紙に書いて伝えたりだとかその人に応じて”伝え方”を変えます。

だけど恐らく失語症というものはまだまだ社会一般的ではないと思っています。名前は知っていてもどういう特徴があるかわかっている人は少ないと思います。もし日常生活で失語症の方と出会い、相手が言葉を理解出来ていなかったり、言葉のつながりが上手くいっていなかったりしたら、

「なんでこの人は理解できないんだろう」

と思ってしまうんじゃないでしょうか。中にはイライラしちゃう人もいるんじゃないでしょうか。イライラとまではいかなくても、不思議に感じる人は少なくないはず。

これはわからない人がよくないのでしょうか。
もちろんわからないなりにもとることが出来る対応はあります。ただわからないこと自体が悪いとは言えないと思います。

特に失語症で、他に身体麻痺等なく普通に移動などしていたら「見えない障害」に気づくことは容易ではありません。

なんなら私だって、大学時代までの自分だったら同じ場面に出くわしたとき、「え、なんで伝わらないんだろう?」くらいの理解で終わっていると思います。それ以上深掘りをすることもない気がします。


知っている人・理解している人は、知らない人の対応を見てもどかしく感じます。

「もっとこうしたらいいのに」
「なんで〇〇してあげないんだろう」

でもそう嘆いて局面は変わるでしょうか。変わりません。直接、「そういう場合、こうした方がいいですよ」と伝えてあげたら多少変わるかもしれませんが、それをせず現状に嘆いているだけでは何も変わりません。

一般的でないものであればあるほど、それを知られる機会というのは少ないです。出会わない人はそれを出会わないままの人もいます。

じゃあ知っている側は何もできないのか。

声を上げ続ける、に尽きるんじゃないかなと思います。
その声がたとえ小さかったとしても、上げ続ける。
声を上げないのと、小さくても上げ続けるのは紙一重じゃありません。めちゃくちゃ大きい差です。

始まりは声が小さかったとしても、自分1人じゃ声が小さかったとしても、いずれ力がついて声が大きくなったり、同じ思いを持つ人が声を上げることで盛り上がったりすると、いやでも周りの人は注目してしまいます。

本当に変えたいなら、出来ることをやっていくしかないのです。

不定期で私が#就労支援の現場からということで記事を書いているのもその1つといえばその1つ。障害って決して他人事の話ではないから。でも触れる機会がないと知らないから、知ろうとならないから。自分自身がそうだったから。

小さくても声を上げ続けます。


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