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「書く」ことに求めたもの

今こうやってnoteを毎日のように書いていて(924日目)、まさか自分がこんな風にまだ顔も見たこともない「誰か」が読む場所に文章を投稿しているなんて小さい頃は思っていなかったけど、書く片鱗はずっとあった気がする。

小中学生のころ、担任の先生に提出する「日記帳」なるものがあったけど、それを書くのがすっごく楽しかった。

高校生の頃、野球部で「野球ノート」なるものがあったけど、毎試合毎練習振り返ることに力を注いでいた。先生がミーティングで話した内容をメモするのにも力を入れていた。

ただメモするんじゃなくて、その瞬間の感情を添えて。

言葉やその瞬間に伴う感情って生ものだ。
1分1秒と時間が過ぎるごとに温度は下がっていく。

だからその瞬間にその言葉を、感情を書き連ねていた。

ここまでの流れだとちゃんとメモしている人、だけの内容だが、メモしていたのはこんな綺麗なものばかりじゃない。

自分だけじゃどうしようもできない状況、受け入れなきゃいけない理不尽、やり場のない気持ち。

そういった荒々しい感情もノートに書いていた。
ほかにどこも吐き捨てる場所がなくて、ただ自分の中で抱えておくには大きすぎて。どこかに吐き出したい。

だからその瞬間にその言葉を、感情を書き殴っていた。

そうやっていつも「書く」が身近にあった。
自分を知るため、自分を守るため、自分の力にするため、何よりも、

”自分を納得させるため”


特に荒々しい感情をノートに書くときは「自分を納得させるため」の向きが強かったかもしれない。

モヤモヤやイライラは自分の中で抱えれば抱えるほど大きくなっていく。だから一回誰かに受け止めてもらわないとならない。

だけど当時は誰にも話せる人がいなかった。
話しちゃいけないと思った。
話したら仲間外れにされると思った。
話したらどんな目で見られるだろうか。
今思えばなんて来ない「体裁」ばかりを気にしていた。

だから「誰かに話そう」なんてことは選択肢にすらなかった。

そんな時、「書く」ということが自分を客観視させてくれた。自分の中から外に出された言葉を自分の目で見る。気持ちを客観的に受け止める。そうすることでどこか納得感が得られた。

「あ、今自分はこういった感情なのね」

別にそれが直接の解決につながるわけじゃない。
でも書き殴った後には少し落ち着いている自分がいる。

書くことで成長してきた。
書くことで自分を守ってきた。

書くことで自分を知ってきた。


自分で自分を説得させる一番の手段が「書く」だった。


今となっては日常に欠かせない一部になっている。



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