いま、集まって住む理由を考える
私は地域コミュニティの仕事をしています。例えば形骸化した地域づくり協議会に伴走しながらもう一度活動を取り戻せるように仕組みを直したり。もともと建築と都市計画を学んでいたからか、その根っこには住まいや家族がどうあるかということにとても関心があります。
群住単位研究
私の修士論文(今思えばお粗末もお粗末です)では、「群住単位研究」というテーマを掲げました。振り返ってみるといまの仕事にかなりつながっていそうです。当時考えたのは、「集まって住むことが何か新しい効果をうむ必要がある」というものでした。
参照したのはイワシの群れ。イワシは個体は小さいけれど群れることで大きな個体として見せます。スイミー効果です。さらに群れることで水流への影響を変え、移動速度を上げるという効果もうんでいました。これを都市や集落に置き換えて参照したのがイランのマスレー村でした。
急傾斜地に建物が張り付いたようなこの村では、建物の屋根が地域の道となり、広場となっています。つまり一つ一つの建物が住まいであり地域のインフラも兼ねているのです。一つでも建物が欠けると道路や広場が成り立たなくなるという状態です。こうした状態を「群住」と定義し、これからの都市のあり方として示しました。
集まって住む積極的な理由は
そんなことを思い出しながらここ最近の地域コミュニティやすまいを見ると、「あえて集まって住む理由」というのがポジティブな効果どころか、リスクになっているような気さえしてきます。集まって住むというのは、集合住宅だけでなく、住宅地開発のように戸建てが集まった状態も集まって住むとしています。
例えばご近所トラブル、騒音問題などなど。昔のようにその地域の暮らしぶりが失われている中で、わざわざ都市に集まって住む理由ってなんでしょうか。「職場が神戸だからその近くに」や「〇〇の学校に行きたいから」なんて理由がありそうな気がします。昔は、この地域はほとんどが農家だったからやほとんどが漁師だったからというように、その地域で共有できる暮らしぶりがあったから、コミュニティがあることが互助になっていたはずです。
暮らし方や仕事も多様化する中で、地域の暮らしぶりが失われ、共有できる財産もなくなった中で、あえて地縁コミュニティを育む理由が失われているのが現代なのではないでしょうか。つまり地縁によるコミュニティは結構限界に来てしまっていて、それとはちがうつながり方のほうが効果的になってしまっているという現状だと思います。
じゃああえて集まって住む(地縁コミュニティを育む)理由ってなんでしょうか。ここが戦後から続く日本のコミュニティの大きなブレイクスルーになりそうな気がしています。
いざというときの地域コミュニティってほんと?
こういう話をすると、災害がおこったときや認知症の見守りなどが今後のコミュニティの機能として必要だという話になることがあります。加えて、そうした機能を果たすにはいかに日常のつながりをつくっておくかという話にもなり、これはとても納得します。ただ、たまたま近所に住んだ人と日常的なつながりをつくっておくにはあまりにもその理由がなさすぎるなと思っています。そしてリスクを避けようとすればするほど日常的なつながりはつくらないほうが良いという判断になります。
ここまで書いてきて、やっぱり地縁コミュニティには共有できるなにかが必要なんだとおもいます。小さな農園でもいいし、庭でもいいかもしれません。無理のない範囲で維持できる共有財産をもう一度つくりなおすことかもしれません。そこにはすまいのつくり方、都市のつくり方が大きく影響していそうです。長野県の小布施ではオープンガーデンの取り組みが有名です。住宅の庭を一般公開するという方法です。これが連単することでまち歩きができる仕組みです。もしかするとこうした取り組みがコミュニティのきっかけになるのかもしれません。
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