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意識を自由にすること

意識を自由にしたいと思う。これはもう十年くらいの間ずっと思い続けていたことだ。しかしいまだに——十分には——達成されていない。僕は31歳になってまだアルバイトを続けている。職業的小説家になれるのにはまだもう少し時間がかかるのかもしれない。でもそんなことは関係ない●●●●●●●●●●●●、と僕は思う。なぜなら時間は流れているからだ。今ここに●●●●僕は生きているからだ。そしてその状態はおそらくはもっと歳を取ったときでもさほど変わらないのだろう、という気がしている。これは本能的なものだ。


要するに我々は何歳になっても今を生きるしかない、ということなのだと思う。考えてみれば当たり前のことなのだけれど、我々は時を保有することができない。どれだけ金持ちでも、どれだけ貧乏でも、一秒は一秒である。一分は一分である。一日は24時間である。そのあたりのことに——基本的には——差はないのだと思う。基本的には、というのは、たしかに金持ちの方が自由な時間を多く持てる、ということはあり得るからだ。お金のために労働をしなくていい。そんな状況があれば・・・まあ24時間のうちの多くを好きに使うことはできるかもしれない。そういったことは十分にあり得る。たしかに。


でも僕がここで言いたいのはそういったことではなくて、もっと根本的なことである。根本的●●●。うん。それは要するに、人は未来や過去を所有していると思い込んでいるけれど、本当はそうではない、ということなのだと思う。本当は我々はいつだって「一人」で、いつだって「今」を生きているのではないか? あくまでそうではないと思い込んでいるだけで・・・。


どれだけたくさんの機会があっても肉体は一つだし、どれだけたくさんの友人がいたとしても、おそらく一度に真剣にしゃべることができるのは一人だけである。どれだけたくさんの本があったとしても、同時に二冊読むことは基本的にはできないと思う(できたとしても質が低下すると思う)。音楽も絵も・・・とにかく本当の意味で楽しむには——生きるには——一度に一つのことしか選択できないのではないか? 僕はそう考えているのである。


そしてそういう観点でいうと、まあ何歳になったところで——知恵が付いたところで、金が増えたところで、エトセトラ、エトセトラ——さほど今を生きる、という行為の質については変わらないのではないか、と思うのだ。もちろんより集中力が増す、ということはあり得ると思う(その逆もしかりだが)。僕がもし将来に希望を持てるとすれば、そういった部分に過ぎない。「今をより良く生きること」。うん。


だから何を言いたいのか、というと・・・つまり今この瞬間だって、本当はきちんと生きられるのではないか、ということだ。「きちんと生きる」というのはつまり・・・意識を自由にするということである。はい。あらゆる偏見から自らを解放し、「現実」という狭い枠組みを易々やすやすと飛び越えて・・・「今」という瞬間の価値を高める。というか、そこにある「真実の光景」を目にする。もちろんこれは想像である。なぜなら僕は偏見によってこれまで自らの身を守ってきたのだし、おそらくはこれからもその状況に大きな変化はないだろうと思えるからだ。たぶんそれが人間の初期設定なのだと思う。僕が悪いとか、両親が悪いとか、そういうことではなくて、みんなそうなのだ。そうじゃないと普通の日常生活を送れなくなってしまう。しかし●●●にもかかわらず●●●●●●●、僕は自由になりたいと思う。そのあたりのギャップは、やはり孤独な心的状況を生み出す原因となってしまう。孤独●●。でもまあ、不自由であるよりいいじゃないか? 僕は最近そう思い始めているのだ。


考えてみれば、ずっとここを目指して生きてきたのだと思う。大学生くらいのときから、なぜか足をズルズルと何かに引っ張られて、常に上手く歩くことができなかった。そういった感覚がある。でもそれはあくまで僕の本心が求めていたことだったのだ。今ではそれが分かる。ポーズを取ることが上手になれば、とりあえず表面的には生きていける。見栄えも良くなる。方向性に悩む必要もない。みんなが喜ぶ・・・。


でも僕自身は? 僕自身の本心はどうなのだろう? 僕はたぶん自らを解放したかったのだと思う。あの当時から、だ。狭い世界に閉じこもって、キョロキョロとあたりを見回して、文句を言われないか心配して、そろそろと足を踏み出す、というような状況から抜け出したいと欲していたのだ。それは要するに、自分の心の状態を一番に考える、ということでもある。自分の心の状態●●●●●●●。うん。


ということで僕は今「自分の心の状態」を一番に考えたいと思う。それは勇気が要ることだけれど、少なくともこの「文章」というフィールドでは可能である。ときどきどうして自分は「読んでいる」という状態だけでは足りないんだろう、と思うことがある。何も自分でわざわざ書かなくたって、素晴らしい作品は(小説でもエッセイでも)たくさんあるじゃないか、と。それはある意味では正論なんだけれど、「なぜか書きたくなってしまう」という状況が現にここにあるのだから仕方がない。僕はたぶん退屈したくないんだろうな。せっかく生まれてきて、今ここという瞬間を認識している。そしてもしそうしようと思えば、新しく何かを生み出すことができるのだ。この手を使って・・・。



僕は何も傑作を生み出したいんじゃなくて——まあお金は欲しいけれど——まず第一に自分の精神を自由にしたいのだと思う。考えてみればこの十年ほどの間、ほとんど一つも良いことなんかなかったのだけれど、それは何も僕がものすごく不幸だったとか、環境が悪かったとか、そういう意味ではなくて、あくまで「良いこと」の基準が歳を取るにつれて、外部から内部へと移動していったに過ぎないのだと思う。要するに「誰かから褒められた」というようなことよりは「どれだけ自分が充実感を抱きながら文章を書けたか」というような、内的なことの方が重要になっていった、ということだ。それは静かな喜びである。僕だってずっと——七年もの間——書き続けてきたのだからまあ少しは成長しているのだと思う。でもそれと同時に、人間として——ここが重要なのだが——プライオリティーの位置を移動させてきた、という実感がある。そこにおける「良いこと」というのは要するに「自由をどれだけ感じられたか」という一点のみである。それは利己りこ的ではないのか、とあなたは言うかもしれない。あるいは言わないかもしれない。いずれにせよ、今の僕にとっては、それ以外に優先すべきものを見いだせないのだ。この人生において。


きっと遠慮があったのだろうな、と思う。そして怯えもまた。そのせいで僕は真に重要な一歩を踏み出すことができずにいたのだ。自分自身を信じることができなかった。うん。それで「社会の歯車」として働いていたって、なんとか十全に生きることは可能なはずだ、とか変なことを考えるようになってしまったのだ。まったく! それは間違ったことだった。もちろんそうやってバランスを取っておられる方もいるのだと思う。仕事は仕事として割り切って、そのほかの領域で人生を楽しむ、というような。それが決して間違っているわけではない。というかむしろ健全な態度であるように、僕には思える。でも僕に関しては●●●●●●、それは二兎にとを追うようなことだったのだ。二兎を追う者は一兎も得ることができない。まあ今さらウサギの肉なんて食べたくもないのだけれど・・・それはともかく、まず自分の本心に従って、真に自由になることを目指すべきじゃないのか、と僕は思ったのだ。そのためには・・・今ここにある時間を有効に使うことだ。恥ずかしいとか自信がないとか言っている場合じゃない。僕は今ここにいて、そしていずれ死ぬのだ。死んだときに——あるいは死ぬ直前に——後悔したいだろうか? あのときあんなに時間があったのに、俺は見当違いの努力にそれを費やしてしまっていた。その目的は何だ? 肉体的に生き延びること、だけではなかったのか? 俺の生きるべき時間はあそこにあったのだ。あの若い時期に。それなのに・・・何もせずに時間を過ごしてきてしまった。いや、実際にはいろんなことをやってきたのだが・・・それはすべて●●●他者のためだった。自分のためだと思っていたときですら、それは自分の「本心」のためではなかった。俺は嘘をついて生きてきたのだ。ああ、あの時間が帰ってこないだろうか・・・。


覆水盆に返らず、である。流れ去った時間を取り戻すことはおそらくはどれだけ優れた呪術師でもできないのではないか、と思う。だとしたら・・・後悔しているその時間を可能な限り有効に使うしかない。僕は生きていることに意味なんてないんだ、と思い込んでいた。もっと若い頃だ。でもそれは・・・おそらくは一種の言い訳に過ぎなかったのだと思う。僕は正常な道を外れ、自分独自のルートを辿ることが怖くて仕方なかったのだ。しかしその「怯え」を自分で認めることができずに、ただ「死にたい」とかこぼしていたのだ。結局それでは自分の内部にある真実の声を聞き取ることはできない。なぜなら聞き取るのは表層意識の役目だからだ。我々にはちゃんとここにいるだけの必然性があるのである。僕は少なくとも最近そう信じている。たしかに。


もちろんほかの多くの人々のように、ただ肉体的生存を保つことだけが善であると考えているのではない。その辺が医者とは違うところだ。近代医療の目指すところは要するに「健康に、長生きをさせる」というところに尽きると思うのだけれど、それだけでは僕にとっては足りないのである。肉体的生存は手段だ。その内部にある透明な精神がどう動くのかが、僕の本当の関心事である。あるいは内心では多くの人がそれに気付いているのではないかとも思うのだけれど・・・。


おそらくはただ働いて、賃金を稼いで、健康に、にこやかに暮らす(もちろん可能なら、という意味だが)という一種の閉じられたシステムに適応できない人々がこのnoteにも多く記事を寄せているような気がする。彼らがやりたいのは(たぶん)文書を書くことによって自らの透明な精神を解放することである。そしてもちろん僕もまたその一人だ。それによって食べていくことはたしかに難しいかもしれないけれど・・・決して不可能ではない、と感じる。だって実際にやっている人たちだっているのだから。どうして自分にはできない、と決めつける必要がある。もちろんそこには内的必然性のようなものは必要になってくる。だってそうじゃないと・・・もし運よく職業的作家になったところで、無理矢理文章を書く、という状態に陥ってしまうからだ。それじゃあ本末転倒である。本来自由になるために作家を目指していたはずなのに・・・。


ということで何を言いたいのか、というと・・・とにかく自由になりたいのだ、ということである。今までかなりの時間を余計なものごとを考えることに費やしてしまった。そういう感覚がある。僕はおそらく・・・生まれつき心配性なのだろうな。いろんなことが不安になってしまう。将来のこと。お金のこと。年齢のこと・・・。


でもそんなことは本質的にはどうでもいいことなのだろう。なぜなら我々は常に今を生きているからである。自分の本心に耳を澄ませて・・・手を動かすのみだ。そうすれば退屈している暇はなくなる。シリアスな問題とシリアスに向き合う必要はなくなる。僕が思うに「シリアスな問題」は本当は腕組みをしてグズグズと考え込んではいけないものなのではないか、という気がする。シリアスであればあるほど動きというものが大事になってくる。我々は今を生きている。当然のことながら、いつか死はやって来る。それを避けることは誰にもできそうにない。しかし死があるからこそ、ここにある草花は美しいのである。鳥の声は美しいのである。我々の存在だって本当は——なかなかそうも思えないのだけれど——神聖で美しいはずなのだ。ウィリアム・ブレイク(1757-1827)はその生涯において、執拗にその事実を伝えようと試みていたような節がある。僕は彼の絵が好きだ。彼の詩が好きだ。狂人だと呼ばれながらも、六十代に至るまで、独自の世界観を構築し続けた。僕もなんとかそんな人間になりたいと思う。正常になんかなるものか。異常でいいのだ。異常でいいから、自分に正直に生きていきたい。なぜか? 今ここに時間が流れているからだ。それ以外の理由はない。


ということで、小説書きに戻ります。失礼。


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