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170年前の吉田松陰の企て

ペリーの「遠征記」に書かれた吉田松陰と金子重輔

吉田松陰と金子重輔がアメリカへ密航を企てたことはよく知られている。1854年4月25日(ただし、具体の日付は諸説あり)のことですから、ちょうど170年前のことで、ペリーが条約の調印を済ませ、江戸を離れて下田に停泊していた時のことでした。

乗り込んだ船は旗艦ポーハタン。その前にミシシッピに乗り込み、ポーハタンへ行けと教えてもらったからです。松陰らの願いはペリーにまで届けられ、ペリーは日本政府の許可がなければアメリカへ連れて行くことはできないと拒絶します。

ただ、「遠征記」には「日本政府の許可が得られれば喜んでアメリカへ連れて行く。そのための交渉をしなさい。その交渉が終わるまで下田滞在を伸ばしてもいい」と好意あふれる言い方であったことが記されています。
(ペリーは下田のあと、箱館へ行く予定でした)

そして後日、日本当局に二人の処罰を軽く済ますよう働きかけさえもしたのです。この事件について「遠征記」にはこうあります。

「この時件は2人の教育ある日本人の強い知識欲の証拠として非常に興味がある。彼らは知識を広くするために厳しい国法を冒し、死の危険を辞さなかった。日本人は確かに物を知りたがる国民であり、自分たちの道徳的、知的能力をひろめる機会を大いに歓迎する。この不運な2人の行動は同国人の特徴を示すものだと思われるが、この国民の強い好奇心をこれほどよく表しているものはない。ただ、たえまない監視によって守られている非常に厳格な国法のためにその実践がはばまれているだけだ。日本人のこうした傾向の中に、この興味ある国の将来に、どんなに希望にみちた前途がひらけていることだろう。」(「ペリー提督日本遠征記Kindle版/合衆国海軍省/大羽綾子翻訳」P336)

またその数日後、下田郊外を散策中の艦隊将校一団が、偶然2人が繋がれている獄舎の前を通りかかった時、その2人のうちの1人から木片に書かれた文章を渡されたらしい。「遠征記」には、それを訳したものまでが記されていいます。漢文で書かれたそれを翻訳させたものを記したものです。ペリーがいかに彼ら2人の行為と、獄舎につながれてもなお失わない精神の高貴さに感動したのかがうかがえます。この時松陰25歳、重輔24歳であった。

もし、ペリーが彼らをアメリカへ連れて行ったならば、この国の歴史はどうなっていたのでしょう。松下村塾もなく、そこから輩出された人物もまたないということになるので、また違った歴史になったのではないかと思います。

なお、この時のコミュニケーション手段は、すべて漢語の筆談です。


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