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哀しき台湾その2

「哀しき」とタイトルにあるが、今回はそう哀しい話ではない。

故宮博物館で考えたこと

数年前に、そこを訪れた時「よくも、これだけのものを混乱の中で台湾へ持ってきたなぁ」というのが、第一印象だった。蒋介石にしてみれば、自らの政権こそが「中華」の歴史を正式に受け継いでいることを内外にアピールするために必須の大事業だったのかとも思った。わたしの記憶が正しければ、この混乱の最中に、「北京原人の骨」が紛失したらしいのだが。

世界最長の戒厳令施行期間

台湾では、1949年から1987年までの38年間、ずっと戒厳令が敷かれていたことを知る人は少ないのではないか。これは世界最長らしい。また、韓国同様、今でも徴兵制が敷かれている。何をしでかすかわからない北朝鮮の南進を恐れる韓国と、台湾は中国の一部と公言する中国が隣にある台湾。両国の境遇は、残念ながらかなり似通っていると言わざるを得ない。

とはいえ、韓米同盟のある韓国とは異なり、台米同盟があるかないかもわからない台湾では、抑止力に大きな違いはある。

台湾からの震災義捐金

これは2011年の東北大震災時のそれではなく、1923年の関東大震災でのそれである。わたしもつい最近知ったことだ。

台湾では、震災翌日(9月2日)に官民協議の上、目標金額20万円が定められて、全島一斉に義捐金が募集された。それに対して、9月4日には台北市からは「20万円は台湾の身上からは少なすぎるので、市としては40万円を目標として努力してほしい」との声明がだされた(出所:「日本統治下の台湾/坂野徳隆」P64)。

前掲同書によれば全島の地方議会がこれ続き、2011年の時と同じように、いっせいに市民から義捐金が集まりだし、震災発生1週間後には70万円を超え、最終的には義捐金・義捐品の合計が127万円(※現在の価値で約30億円以上)が集まったらしい(出所:坂野同書P64)。

※貨幣価値を現代のそれに換算する時、何を基準にするかで大きく異なる。同書では、何を基準としたかは未記載である。「『月給百円』サラリーマン/岩瀬彰」では、昭和初年の東京の小売物価指数と2004年のそれとを比べて、総合で戦前基準の1,800倍、食料・被服は2,000倍であることから、およそ2,000倍とした物差しを使っている。岩瀬同書(P17)によれば、昭和初年のうな丼60銭、天丼30〜40銭、お汁粉15銭、もりそばやコーヒーは10銭を、それぞれ2,000倍して、そう違和感がないことを記している(うな丼1,200円はかなり安すぎるが)。それを使用すると、当時の127万円は現代の25億円となる。

同じ統治下の朝鮮半島からの義捐金は約190万円だという。当時の台湾の人口は※390万人、朝鮮半島は1,700万人である(ちなみに日本は6,000万人)。しかも、財閥も多かった朝鮮半島と比べて、大企業もなく、低所得人口の多かった台湾(出所:坂野同書P64)でのこの金額には、ただ感謝するしかない。およそ100年後にもそれが再現されたことになるのだから、ひたすら平身低頭だ。

※義捐金127万を当時の台湾人口で割ると、1人あたり33銭。上記の2,000倍を使い現在価値にすると660円。2011年の東北大震災で台湾から寄せられたそれは200億円と言われているので、それを現在の台湾人口(2,400万人)で割ると1人当たり833円となる。100年前は、今と比べて格段に貧しかったはずなのに、今と大きな差ではないことにさらに驚いてしまう。

※日本国内からも6,000万円の義捐金が寄せられていた(坂野同書P64 )ので、同様に1人当たりを求めると日本国内のそれはちょうど1円、現在価値で2,000円となる。

ちなみにアメリカからの義捐金

関東大震災時のアメリカからの義捐金は、総額で1,060万ドルという巨額にのぼった(出所:「関東大震災と日米外交/波多野勝・飯森明子」P142)。1924年の平均為替レート(100円=42.102ドル/日本銀行金融研究所/歴史統計より)から円換算すると、約2,500万円だ。現在換算では500億円である。それだけでなく、アメリカは震災前の東京の病院のベッド数8,600床(うち、5,700床以上が震災で破壊)に、ほぼ匹敵する6,000のベッド(病院船含む)、それに要する設備機材を日本に持ち込んだ(出所:「波多野・飯森同書」P164)。

詳しくは書かないが、この巨額の義捐金と圧倒的な援助規模は、当時の日本国内での反米世論を和らげようとする政治的な意図があった。アメリカ本土(特にカリフォルニア)での日系人差別はエスカレート、止むことはなく、カリフォルニア州での1913年の外国人土地法、1920年の同法改正で、日系人の土地所有が完全に禁止され、その不当性に日本国内の世論は反米に沸騰していた。いわゆる「排日移民法」が制定されたのは1924年であった。

義捐金の背景は、台湾の人々からのその意識とは大きく異なる。

台湾と朝鮮の差

宮中での席次は、朝鮮総督が上で台湾総督はその下であり、台湾は朝鮮よりは下の位置付けだった。朝鮮半島に京城国立大学が創立されたのは、1924年(大正13年)で日本の国立大学として6番目、台北帝国大学は1928年(昭和3年)で7番目だった。外地に創立されたこの2つは、大阪・名古屋の国内の国立大学よりも古い。

終わり



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