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漢字と日本人

オランダ通詞の苦労

江戸時代の彼らの苦労は、並大抵のものではなかったと思います。当時の日本語にない、新たな「言葉」を作り出す必要があったからです。唯一の西欧からの情報源であった、「風説書」と「別段風説書」。これらを日本語にしたのがオランダ通詞たちでしたが、前者は商館長から聞き取った内容を日本語にしたので、わからない単語は、その都度聞き返して平易な単語に言いかえてもらうことが可能でした。一方の後者は、バタヴィアで作成された、いわばレポートを日本語にしなければならなかったので、日本語にできない言葉(概念がわからないから言葉にできない)は、カタカナで記されたままだったりでした。

ベースは漢籍

明治になって、圧倒的な西欧文明が流入してからも、「新たに言葉を作らなければならない」という苦労は変わらずでした。というより、もっとその苦労は増えました。日本語作らなければならない新たな概念は、洪水のように押し寄せたからです。中江兆民はルソーの「民約論」を日本語にするのに、漢学塾にはいって漢文を勉強しなおしました。幼い頃満足な教育を受けられていなかったからです。当時の教育といえば、まずは「漢籍」でした。

幕臣、そして明治の維新政府にも支えた外交官田辺太一が著した「幕末外交談/東洋文庫69」という本がありますが、これは使われている漢字の意味の校注がなければ理解できない箇所が多い。江戸期の日本人の漢文の素養はどれほどのものだったかを知ることができます。

当時の日本人がつくった新しい言葉(和製漢語)は、現代中国で必須の言葉となっているのは、以前書きました

カタカナ語の洪水

翻って現代はどうでしょう?カタカナ語だらけです。そもそも、日本語にしようとは考えてもいないと思います。漢文の素養は、江戸・明治の人びととは比べるべくもないので、新たな言葉を作るのはもはや不可能なのかもしれません。「漢文の素養/加藤徹」によれば、大正までは、新聞に「漢詩」の投稿欄があったといいます。今は和歌のみですね。

「コンピューター」は中国語で「電脳」、「インターネット」は「網際網路」です。それらを、江戸、明治期の日本人だったら、いったいどんな漢字を充てて、どんな言葉を作ったのだろうと考えてしまいます。

タイトル画像出所:国立公文書館(https://www.archives.go.jp/exhibition/haruaki_19_aki.html

終わり

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