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9-3.指南役クルチウス

「日英約定」の中身

この約定は全7条からなり、第1条で長崎、箱館の2港を船体修理や必需品の供給のために開くことをイギリスへ認めました。同時に第3条において、漂流以外の理由から他の日本の港への寄港を禁じています。第5条には、最恵国待遇条項がありますが、オランダ人と中国人の優遇は特別とする条件が加えられています。

「どこの国も平等にすべき」と言ったスターリングに対し、水野は「同じ人間であっても、家族には見知らぬ他人以上のことをするように、オランダも中国も長い付き合いで今は家族と同様なのだ」と冷静に反論しています(出所:「開国日本の夜明け」P199)。

また、これにはちょうど同時期に軍艦購入や海軍伝習のための人材を受け入れるため、オランダとの関係を見直す時期、すなわち日蘭条約の検討もあって、オランダ人への規制の緩和をイギリス人にまで適用しないための伏線でもありました(出所:「西澤同書」P116)。

クルチウスの存在

また、ここまでみてきたように、イギリスとの交渉においてクルチウスの存在は、なくてはならないものでした。イギリスからの英文を蘭文に翻訳する通訳としてもはたらいただけでなく(クルチウスの「覚え書」には「早朝」「深夜」といった言葉が度々でてくる)、日本が初めて耳にする新たな概念も説明する必要もあったと思います。

また、ロシア船の時と同様、イギリス船への物資補給は、オランダ商館が介在しておこなっており、今回はイギリス船から直接代金(為替)を受け取っています。ただし、イギリス船の出航間近(10月20日)の石炭の供給は、戦時における「中立」を犯す懸念があることを奉行に伝え、「在庫なし」として断らせています。

日本は、自らの知らぬところで一般化しつつあった「国際法」というものに、否応なく対応しなければならないことを感じ取ったと思います。どう対応するか、その指南役はクルチウス(タイトル画像)でした。

この時期の日本に彼がいてくれたことは、天の与えた配材、本当に幸運なことだったと私は思います。

日米和親条約のオランダへの均霑きんてん

水野は、イギリス艦隊が去った10月22日、クルチウスに「日米条約と同等の内容(下田・箱館の開港)」をオランダにも均霑(=平等に与えること)すると伝えています。これは、「武力を用いたアメリカには屈伏し武力を使わないオランダはそのままとする悪評を避けよ」という水野の上申(8月に出された)を、江戸が認めたことによります(出所:(「徳川の幕末/松浦玲」P32)。松浦玲氏によれば、阿部政権への強烈な皮肉を含んでいるといいます。クルチウスは、その知らせをこう書いています。

「今獲得できるものはたちまちオランダに営利をもたらすものではない。他国に与えられたものは現在オランダにも容認されていて、しかもオランダが取得している特権は外国人が獲得することなくして得たものである。私はまず箱館と下田のために定められた港湾規定やその他の規定に関する情報を集め、次いで日米和親条約を長崎のオランダ人に適応させることについて幕府がどのような見解をもっているか打診するつもりでいる。彼らは今のところこれを明らかにする意図はもっていないようであるが、私は辛抱強く、そして慎重に対処すれば、必ず事情が改善されると考え、まだ希望をすてていない。」(出所:「覚え書」P102)

ファビウスの離日

来日以来、ほぼ毎日わたって海軍伝習をおこなっていたファビウスは10月26日に長崎を離れます。23日には、将軍からの贈り物として日本刀が彼に渡されました。これに対し、多数の役人たちがファビウスのもとに駆け寄り、「これまで外国人がこのような栄誉に浴したことはない」と握手を求め、「最初の異人武士」と呼び敬意を表したと日誌にあります(出所:「開国日本の夜明け」P76)。

また、彼との別れを惜しみ、それまでの伝習生が200人余りやってきたともあるので。非常に深い親密な情愛が両者間にながれていたことが想像できます。

ファビウスは、この後も2回来日し、クルチウスの片腕として日本を支援することになります。のちに勝海舟は彼を「日本海軍の父」と称賛しています。

プチャーチン出現

長崎でイギリスと交渉していた10月。プチャーチンの乗る帆船ディアナが函館、ついで大坂に突如現れます。次回から、対ロシア交渉をみていきます。

※この項「170年前の多事多難」とややかぶっています。

続く


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