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9-1.イギリス東インド艦隊の長崎来航

オランダ海軍中佐ファビウスの来日

1854年8月22日、クルチウスの前年の進言を受け、オランダ海軍の蒸気軍艦スンビンが長崎へ来航しました。これは、翌年にオランダ国王から将軍に贈呈されることになるものです。クルチウスは、この蒸気艦の滞在中、日本人に対船舶用蒸気機関術、砲術、航海術の伝習と情報提供を行なう用意があると奉行所に伝えました。また、艦長の海軍中佐ヘルハルドゥス・ファビウスは幕府に対し、洋式海軍創設の意見書を提出しました。そして、来航間もない26日から長崎奉行が指名した人間に対して蒸気機関の講義を始めています(日誌によれば、ほぼ毎日にわたって行われている)。ファビウスは、駐留日誌にこう書いています。
 
「聴講生の未知の分野について、通詞を介して教えるのはなかなか骨が折れる。だが、私は彼らの燃えるような向学心と奥ゆかしい態度に感心した。伝習は商館長官邸で、上役人と目付の参席のもとに行われた。」(出所:「開国日本の夜明け/フォス美弥子編」P29)

海軍伝習所の魁

この伝習は、翌年1855年に開設されることになる「海軍伝習所」(後述)の魁となるものでした。長崎奉行(水野忠徳)は通詞を介して、蒸気機関術、砲術、造船所の伝習に必要なオランダ人教官の人数、給与、待遇などをファビウスに尋ねてきています。伝習生には、ファビウスの日誌によれば佐賀藩士、福岡藩士も出てきますが、彼に対して「鎖国制度が今日まで芳しくない影響をもたらし、国民は幕府が前途を切り開くことをひたすらに願っている」と打ち明けるようにもなったらしい(出所:「開国日本」P32)。

イギリス艦隊長崎へ

そのファビウスの海軍伝習が始まってから約1ヶ月後の9月7日、イギリスの東インド艦隊4隻(帆船1、蒸気艦3)が長崎へ入港してきました。この1ヶ月後に日本はイギリスとの間に「日英約定」を締結するのです。

幕府はこの時のイギリスとの交渉において、「条約」というものが単に自らが縛られるわけではなく、同時に相手を縛ることができるものだと認識をするようになり、さらには国際関係上の「中立」ということも理解するようになります。また、同時に自らは望まなくとも、外国の戦争に巻き込まれることもあり得るという事実をも認識するようになるのです。

幕府(長崎奉行)はイギリスとの交渉においては、再びクルチウスの助言を必要としました。というより、彼なしでは交渉は不可能でした。その過程を見ていきます。

クリミア戦争の余波

オスマン帝国とロシアとの間のクリミア戦争に、1854年3月イギリスとフランスがオスマン帝国側について参戦したので、ロシアとイギリスは敵対関係に入っており、イギリスはロシア艦船を探索しつつ長崎へやってきたのです。

クリミア戦争の勃発は、幕府には既知の情報でしたが、そこにイギリスとフランスが参戦したという情報は、スターリング来日のわずか1ヶ月前、その年の別段風説書によってもたらされたものでした。そこに、イギリス艦隊が長崎に姿を現したのです。

プチャーチンのロシア艦隊は、実は4月にも長崎に来航したばかりでした。江戸からの新たな通知が届いていないかを確認するためで、再来したペリーのことは気にしつつも、6月に樺太で国境交渉をしたいという書簡を託して1週間ほどの滞在で去っていきました(出所:「徳川の幕末/松浦玲」P30)。

ロシアの応接掛筒井と川路の両名の上申は、「日本の港内でイギリス・フランス対ロシアの戦闘が起きても手の打ちようがない」という悲鳴にも近いものでした。長崎の町全体もその恐れを抱いていました。
 
「日本から遠く離れた場所での戦争であっても容易に戦争に巻き込まれてしまう現実を突きつけられ、日本の置かれた立場を自覚しつつも『無策』でいるわけにはいかず、『中立』という問題が生じることになった。」(出所:「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」P87)

イギリスの要求

直ちに奉行所役人が乗船、来航目的を尋ねるとイギリスの艦隊司令長官ジェームズ・スターリングは、「船には英語を解する日本人が乗っており、通訳を務めるので今後一切オランダ語は話さない」と告げ、高位の日本の役人の来訪を求めました。そして長崎奉行宛の書簡を渡しました。これは英語で書かれたもので、渡す際には「オランダ人に翻訳してもらうように」と伝言しています(出所:「幕末出島未公開文書ードンケル・クルチウス覚え書」/フォス美弥子」P90、以降「覚え書」)。

このように、突然巻き込まれたクルチウスですが、渡された英語文書をオランダ語に翻訳し、奉行へ提出しました。そこには「ロシア軍艦を攻めるために日本のいくつかの港に入る権利を認めてほしい」とありました。

再び「音吉」

スターリングの言う英語を解する日本人とは「音吉」です。イギリス船マリナー号での通訳を務めて以来の2度目の通訳でしたが、その後間もなく通訳としての仕事を果たせないことが判明します。彼は、漢字の読み書きができなかったのです。しかも日常の意思疎通ではなく、高度な外国との交渉です。「Treaty(条約)」や「International low(国際法)」と言われても、それを即座に日本語に訳すなど不可能だったはずです。これらは幕末から明治初頭にかけて新たに作られた日本語です。音吉の語彙にあるはずもありません。

長崎での対応方針

長崎奉行水野忠徳は、直ちに江戸へ伺いを発し、江戸からの返答は10月初旬に届きました。そこには、「戦争目的で開港は拒否。必需品の供給や船体修理のためならば長崎・箱館を許可。下田の開港も許すが、それ以外は拒否。江戸から応接掛を送ることはなく、長崎奉行にて応接」とありました。水野は、目付の永井尚志なおむねとともに交渉にあたることになりました。

続く

タイトル画像:J・スターリング


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