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1-12.ポルトガルの冒険は続くその3

ついに中国へ

ここまでやってきたポルトガル人は、獲得した香辛料などの現地産品を本国へ送るだけでなく、この海域内で商売を完結させることによって利益を得るようになっていきます。ポルトガル人がジャワやスマトラで香辛料を仕入れ、それを中国へ持っていけば、4倍の値段でさばけたともいいます(出所:「東アジア/羽田」P140)。商売上で出会った中国商人が招いたのか、それとも自ら行きたいといったのかわかりませんが、彼らが中国商人(倭寇)の本拠地へ行ったことも自然な流れであったと思います。

当時の中国(明王朝)

当時の中国(明王朝)は、「海禁」と「朝貢ちょうこう」という対外政策をとっていたことは前述しました。「海禁」とは、明が正式に許可を与えた国とだけ商売をおこなうことで、そのためには、「朝貢」という相手国の正式な使者と献上品が必要だったのです。この地まで進出してきたポルトカル人たちは、あくまでも商人であり、国の正式な使者ではありません。つまり、ポルトガル人が明の港に立ち寄り、商売をしたいのなら、ポルトガル王の使者の派遣と、それに基づく正式な商人としての許可が必要だったのです。そのため1517年に、ポルトガルは正式な国交を結ぶために使者を派遣しますが、ポルトガルに追い出され、明に逃れていたマラッカ王国の人間がポルトガルのそれまでの乱暴なおこないを明政府に伝えたため、その使節は投獄されてしまいます。さらに、1519年には、広州(現広東省広州市)にやってきたポルトガル船が、これまでの彼らの常套手段(武力を用いた略奪や住民の奴隷化など)をそこでもおこない、ついに1521年、明政府はポルトガル人が不法占拠した拠点に攻撃を仕掛け、ポルトガルを撃退するのです。ポルトガル人が味わったアジア人からの手痛い報復。この一連の出来事により、明の公式な相手国と見なされることが不可能になったポルトガル人たちは、倭寇と一体化して密貿易のネットワークに入っていくのです。それが、日本にやってきた王直とポルトガル人だったのです。

マカオの獲得(といっても賃貸)

しかし、1553年にはポルトガル王室の派遣艦隊が、跋扈していたポルトガル人の密貿易船を自ら取り締まって服従させたこと、あるいは、担当の明の役人に賄賂を送るなどして、広州湾の入り口にあたるマカオに居座ることに成功し、明は土地代を徴収することを条件に正式にマカオへのポルトガル商人の居住を認めることとなり、それ以降、マカオがポルトガルの東南アジア海域の拠点となるのです(1999年までポルトガルの植民地であった)。

のちに日本に定期的にやってくるようになるポルトガル船は、このマカオを拠点としたものでした。「南蛮貿易」と教科書に出てきますが、ポルトガル本国と日本を結んだ貿易ではないのです。東南アジアや中国本土の商品を日本に運んだだけのことです。彼らは中国から陶磁器や生糸、絹製品を仕入れ、それを日本で銀と交換し、その銀で再び中国から商品を仕入れる、こうすることによって、何倍もの利益があがったといわれています。銀の価値が中国の方が日本よりも高かったからです。こうして、彼らは大儲けをしていくようになるのです。

以下余談

ポルトガルが最初に中国への足がかりを築いた場所が、広東州(広東語)であったため、そこでの「茶」の発音「CHA」が、今でもポルトガル語「CHA」の語源と言われています。こう発音するグループは、日本語、ポルトガル語、ヒンズー語、ペルシア語、ロシア語、トルコ語などです(CHAY、CHAIとも発音される)。ポルトガル以外は陸路、ポルトガルのみ海路ということになります。
一方、「茶」は福建語では「TAY(TE)と呼ばれ、これが英語、仏語、オランダ語、ドイツ語でのその語源になっているようです。
ポルトガルは、広東州から直接「茶」を運び出しため、ヨーロッパの中で唯一異なる系統の発音であり、それ以外のヨーロッパは福建の厦門あもいからそれを運び出したオランダから、ヨーロッパに広がったからといわれています。また、ヨーロッパ人がこの「テー」という語を知ったのは、マレー語の「テー」からではなかったかとも考えられているといいます。
西欧語の「茶」にも、彼らのアジア進出の歴史がかくされているのです。
(この項、出所:「茶の世界史/角山栄」P13〜15)

ポルトガル人が日本にまでやってきた理由

ここまで、1415年から1543年までの約130年間のポルトガルの「冒険」を見てきましたが、これが彼らが日本にまでやってきた経緯です。ポルトガル人が倭寇(海賊)と一緒になって種子島にまでやって理由は、もっと儲けたいという商業的な理由です。力関係でいえば、倭寇の方が圧倒的に強く、ポルトガル人は、その風下にぶら下がっていたのではないでしょうか。東南アジア海域では傍若無人な振る舞いはできたでしょうが、いよいよ中国大陸にまで近づいてくると、大国「明」の前では、それを封印するしかなかったと思います。恭順の振りをして莫大な利益が手に入ることがわかれば、ポルトガルに限らず、誰しもがそう選択したでしょう。

日本と直接関係ないのでここまで触れてきていませんが、ポルトガルは、東へ向かうだけでなく、西へ進んで南米大陸のブラジル(独占のお墨付きあり)への進出も同時におこなっています。南米大陸には、アジア海域に存在していた巨大なマーケットがなく、ポルトガル、スペインともに、現地人から「金」などの貴金属を略奪していきます。そして、支配した新たな土地で、一から商売のタネを探さざるを得ませんでした。コロンブスは、最初の航海時に、サトウキビの苗を持ち込んでいます。そこでの栽培を目論んだからです。その後、ヨーロッパ人が南米大陸にどれほどの罪禍をもたらしたか、「銃・病原菌・鉄/ジャレド・ダイアモンド」に詳しく書かれています。

次回以降は、ポルトガル人がやってきた6年後、スペインバスク地方生まれのフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル国王とローマ教皇の指示によって日本にやってきたことを書いていきます。

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