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1-8.インドへ到達

「冒険」は明治になって翻訳された言葉

以下、余談。

ポルトガルが喜望岬へ到達したのも、コロンブスがアメリカ大陸へ到達したのも、わたしは「冒険」という言葉を使いました。これは明治になって翻訳された新しい言葉(漢籍からの借用語)で、江戸時代までの日本語にはありませんでした。「adventure(英語)「aventure(仏語)」の訳語として、「険を冒す」という中国古典の言葉を当てたものです。日本の英和辞書にそれが出てくるのは明治6年、ただし動詞として「険ヲ冒ス」で、「冒険」とでてくるのは明治21年の「漢英対照いろは辞典」がその嚆矢らしいです。

明治20年代後半には、はやくも児童文学のジャンルで「冒険小説」というものが確立されました。翻訳された「ロビンソンクルーソー」や「15少年漂流記」「ドン・キホーテ」などなど。日清戦争後の国民意識の高揚もあり、夢と冒険が国内だけでなく、海外へも広がったからだといいます。

その言葉を正面から論じたのは池辺三山いけべさんざん陸羯南くがかつなん徳富蘇峰とくとみそほうと並び、明治の三大記者と称され、東京・大阪それぞれの朝日新聞の主筆を歴任した)で、彼は次のように言います。

「活国は即ち冒険を以て活く。而して其冒険の力の大なるだけ其れだけ其活力の大を加ふ。故に人生の道徳には、冒険てふ一信条を加ふるの必要も有るなり」(「明治生まれの日本語/飛田良文」P158)

飛田良文氏は、続けてこう書いています。

「ひるがえって今日の日本は、安全ばかりが叫ばれ、明治の人が道徳の一信条にまでしようとした冒険心を失っている」(「明治生まれの日本語/飛田良文」P158)

平成になってからの日本の凋落の原因も、案外、こんなところにあるのではと考えています。

この項の参考(明治生まれの日本語/飛田良文」角川ソフィア文庫P148〜158)

リスボンからインドまでわずか10ヶ月

閑話休題、ポルトガルに戻ります。

明確にインドを目的地とした航海は、ヴァスコ・ダ・ガマに率いられた3隻の艦隊(ちなみにこの時代の船は、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくる船と思えばいい)です。リスボンの港を出航したのは、1497年の7月のことです。アフリカ大陸西岸の航海は、これまでの70年の歴史からすでに容易だったと思います。喜望岬を回り、東岸のナタール(現南アフリカ共和国)に到着したのが1497年の12月でした。その後、マダガスカル海峡を北上して翌年の4月には中央東部のマリンディ(現ケニア)に到達しました。当時のマリンディは、イスラム商人やインドの商人が活躍する商業港として栄えていました。ここには15世紀初頭に明(中国)からの艦隊が寄港したことも記録に残っています。

この明からの艦隊は、1405年から1433年までの28年間で7回にわたって派遣されている。最も規模が大きかった派遣艦隊は大小あわせて200艘を超えたと言われ、旗艦(宝船とよばれた)の大きさは、長さ126メートル、幅51メートルと史書は記している。これは、コロンブスが大西洋を渡った船の全長25メートルの5倍である。実際にはこれほどの大きさではなかったとも言われているが、いずれにしても、明は当時世界最大の船の造船能力を持っていたことは間違いない。この艦隊の目的は、自国の威容をいく先々で示し、朝貢を求めるためであった。実際、数多くの政権(王朝)が朝貢使節を明に派遣した(出所:「海と帝国/上田信」P164〜167)。
 
そして、わずかその1ヶ月後の5月にはインド西岸のカリカット(現ケーララ州コジコード)に到達しました。これまで70年もかけて、慎重に南下したアフリカ西岸域とくらべて、信じられないほどのスピード感です。もちろん、風向き、海流による航海の難易度に違いはあったでしょうが、それにしても喜望岬を回った後はあっという間にインドへ到達したといっても過言ではありません。これについては、
 
「それは、その時代のアフリカの東海岸が、アラブの商人によって開拓された文明世界であったからとでもいうほかないであろう。インド洋の横断を季節風に乗って行ったということもあるが、実はインド洋に明るいアラブのパイロットが乗船していたらしいのである。」(「港の世界史/高見玄一郎」P188)
 
と言われています。ここでいう「パイロット」は水先案内人のことで、このアラブ人(インド人ともいわれている)の助けがあってインドへ容易に到達できたのでした。アフリカの東海岸域には、高見氏いわく「文明世界」、すなわち交易によって結ばれていた商業世界が既に存在していたのです。そこに新参者(すぐに乱暴者と見破られる)が乗り込んできた構図となります。

14世紀に著されたイブン・マージド(生没年不詳)という、アラブの航海者による航海案内記が存在する。それまでに知られていたアラブの航海手引書を詳しく編纂し直したもので、ここにはアラビアからインドへ向かう航路、インドからマラッカ海峡へ向かう航路、東アフリカの航路の最適な航海時期(季節風が制約)がまとめられている。さらには、このガマの航海のちょうど逆ルート、インドからアフリカ東海域を南下して喜望岬をまわって西岸を北上し、ジブラルタル海峡をわたって地中海へ至るルートまでが記されている。知らぬはヨーロッパ人のみであったということになる。

続く


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