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6-1.アメリカの成り立ち

独立記念日

7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日と知っている人は多いと思います。1776年のことです。この日前後1週間は、アメリカ国内においてはクリスマスや感謝祭に匹敵するほどお祭りモードとなるらしいです。アメリカ国内では、「アメリカ革命」「アメリカ独立革命」、もしくは「革命戦争」と呼ばれ、イギリスでは「アメリカ独立戦争」と呼ばれています(日本もイギリスと同じ)。アメリカ大西洋岸の13のイギリスの植民地が本国からの独立をかけた戦争です。戦争は1775年からはじまり、1783年の「パリ条約」によって、イギリスが正式に植民地の独立を認めて終了となりました。1776年7月4日は、「独立宣言」が出された日なのです。それ以降も戦闘は続いていました。

植民の開始

イギリスが北米大陸への植民を本格的に開始したのは、16世紀末から17世紀初頭にかけてのことで、スペイン、フランス、オランダ、スウェーデンなどの他のヨーロッパ諸国に比べると遅い時期でした。したがって、フランスやスペインの影響下にある地域に挟まれ、オランダ及びスウェーデンの勢力が及ばない東部地域におかれることになったのです。そのころ、今のアメリカ合衆国の領土には、200〜500万人前後の先住民が住んでいたと言われています。彼らは、強大な統一王朝を持たず、部族単位で暮らしており、ヨーロッパ人がやってきた当初は、ヨーロッパ人の生活が成り立つよう、とうもろこしの栽培を教えるなど、友好、協力的な関係を築いていた部族も少なくありませんでした。

ややのちのこととなりますが、ポーハタン族のポカホンタスと、ヴァージニアでタバコ栽培を始めていたジョン・ロルフの結婚は、ディズニー映画「ポカホンタス」の元ネタです。とはいえ、のちの歴史を知るものからみれば、これは極めて稀なケースで、多くの先住民は、ヨーロッパ人との争いで土地を追われ、さらには戦いだけでなく、ヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌によって、多くの現地住民が命を落としていきました。

海を渡ってきた人々

当初、イギリスからはどういった人々がアメリカへ渡ったのでしょうか。よく知られているのがメイフワラー号に乗って1620年にアメリカへ渡った清教徒(ピューリタン/イギリス国教会の改革を唱えたプロテスタントの大きなグループ))の人々「ピルグリム・ファーザーズ」です。宗教的な迫害をさけて、自由な新天地で理想の社会をつくりだそうという志を抱いた人々です。しかし、アメリカへ渡った移民(ここでは白人をさす)は、「自由移民」と「不自由移民」とに大別されます。北部のニューイングランドに向かったピューリタンの他、中部のペンシルバニアのクウェーカー教徒などは、「自由移民」に属します。しかし、移民の過半数は後者の「不自由移民」でした。それは、渡航費や生活者を支援者に負担してもらう代わりに、北米のプランテーションで通常4年間の労働に従事することを約束して北米植民地にわたった移民で、「年季(契約)奉公人」と呼ばれた人たちです。
 
「17世紀初頭から独立前後(1607〜1775)までの北米13植民地への移民数は、自由移民21万7900名(46.1%)、年季奉公人20万200名(42.4%)、流刑囚5万4500名(11.5%)の総計約47万2600名とされる(アフリカから北米に強制移送された黒人奴隷数は31万1600名)。何らかのかたちで自由を束縛されて大西洋をわたった白人は25万人強(53.9%)に達していたのである」(「イギリス帝国の歴史/秋田茂」P52)
 
流刑囚とあるように、イギリス本国は最初は北米、のちにはオーストラリアへ、国内の軽犯罪者を「輸出」していた。彼らは現地では貴重な労働力となった。

当時のアメリカ国旗

よく知られているように、アメリカ国旗の星の数は、「州」の数を表します。独立前は星がなく、そこには当時のイギリスの国旗(ユニオンジャック(初代))が描かれています。よく見るとわかりますが、斜めを走る赤い十字線がありません。その赤い十字はアイルランド王国を表していますが、同王国がユナイテッドキングダムに加わったのは1801年です。したがって、現在のユニオンジャックとも異なるデザインになっています。

続く

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