勝俣涼 Ryo Katsumata

1990年生まれ。美術批評・表象文化論。最近の評論に「個人の危機と芸術――ハロルド・ローゼンバーグ『芸術の脱定義』をめぐって」(『コメット通信』第12号、水声社、2021年)などがある。

勝俣涼 Ryo Katsumata

1990年生まれ。美術批評・表象文化論。最近の評論に「個人の危機と芸術――ハロルド・ローゼンバーグ『芸術の脱定義』をめぐって」(『コメット通信』第12号、水声社、2021年)などがある。

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社会化された芸術至上主義 : 「ボイス+パレルモ」展を見て

埼玉県立近代美術館で開催中の「ボイス+パレルモ」展。「社会彫刻」の概念を提唱したことで知られるヨーゼフ・ボイス(1921-1986)と、ボイスに学んだブリンキー・パレルモ(1943-1977)を並列的に検証する企画となっている。 本展はボイスとパレルモの「一見遠いようで近い」関係にフォーカスし、その「近さ」の象徴として、ボイスの(花瓶に挿された)薔薇(《直接民主制の為のバラ》1973)とパレルモの2色版画(《無題》1974)を、赤と緑の構成という点で隠喩的に重ね合わせている

    • 【レビュー】砂紋と躯の浸透――吉田志穂「砂の下の鯨」(hpgrp GALLERY TOKYO)

       海風にあおられた砂が舞い、すでにそこにあった何かの上に降る。そうやって砂の下に潜る何かは、かつて打ち上げられた鯨の躯かもしれず、砂の表面がなす縞状の肌理は鯨の皮膚の肌理のようで、その模様を描くのが風と砂なのか、それともその下に横たわる鯨なのか、判然としない。  連想的な想像力とはつねに、判然としないこと、あるものが別のなにものかでもあり得るという、イメージの隠喩的な読み換えを頼りにしてはいなかったか。そうした経験はあるいは、焦点をいったん弛緩させ結びなおすこと、地と図の交換

      • 誰が知っているか?――フィリップ=ロルカ・ディコルシアの映画的写真

        フィリップ=ロルカ・ディコルシア(1951-)の写真は、映画的と言われる。実際に撮影の状況をあらかじめ設定し、文字通り演出をして撮影された作品もあるが、本稿では、「頭 Heads」シリーズ(1999-)を取り上げてみたい。  このシリーズは、ストリートを往来する人々を撮った写真である。その画面は、ある1人の人物にフォーカスされており、その周囲(背後)は黒い闇に落ちている。  しかし実際にはその場には、その被写体を取り巻く何人もの群衆がいたはずである。だが結果的には、それらの人

        • 【レビュー】過去の溶け出し――「裏声で歌へ」展

          ¥100

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        • Critical Writings
          2本

        記事

          不確かな位置、先延ばされる成就――レオス・カラックス「アレックス三部作」

          レオス・カラックス監督『ボーイ・ミーツ・ガール』(1983)、『汚れた血』(1986)、『ポンヌフの恋人』(1991)は、「アレックス三部作」として知られるように、いずれもドニ・ラヴァン扮するアレックスという名の男が登場する映画だ。しかし、3人のアレックスは、顔も名前も同じ人物でありながら、別々の世界に生きているまったくの別人という印象を受けもする。たとえば『汚れた血』は近未来という設定であるのにたいし、『ポンヌフの恋人』は制作年と同時代という設定である。他方で、いずれもパリ

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          密着と離散の行程――ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』

          あらゆる所有物も記憶も喪失したような男トラヴィスが荒野をひとり放浪する印象的なシーンから始まるのが、ヴィム・ヴェンダース監督のロードムービー『パリ、テキサス』(1984)だ。  行き倒れたトラヴィスの弟が病院から連絡を受け、カリフォルニアからテキサスまで迎えに行く。4年ものあいだ行方不明になっていた兄と、弟はそうした形で再会することとなる。何とか兄を見つけ、車に乗せる弟だったが、兄はまったくの失語状態にあり、何も喋ろうとしない。やっと喋った彼は、かつて購入したテキサス州のパリ

          密着と離散の行程――ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』

          線引きの破れ、または見境のなさ――マーティン・スコセッシ監督『グッドフェローズ』

          マーティン・スコセッシ監督『グッドフェローズ』(1990)を観た。ずいぶん前に観たことがあったのだが、同監督の『カジノ』(1995)を先日観たのを良い機会に、再見することにしたのだった。両作品にはロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシという共通する2人の俳優が出演しているのだが、筆者を『グッドフェローズ』の再見へと駆り立てたのは、前者ではなく後者の方だった。小柄な背格好と荒い気性、興奮した猫のような声質、それらがジョー・ペシによって演じられる人物のうちに奇跡的に結晶し、存在感溢れ

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