勝俣涼 Ryo Katsumata
誰が知っているか?――フィリップ=ロルカ・ディコルシアの映画的写真

誰が知っているか?――フィリップ=ロルカ・ディコルシアの映画的写真

勝俣涼 Ryo Katsumata

フィリップ=ロルカ・ディコルシア(1951-)の写真は、映画的と言われる。実際に撮影の状況をあらかじめ設定し、文字通り演出をして撮影された作品もあるが、本稿では、「頭 Heads」シリーズ(1999-)を取り上げてみたい。
 このシリーズは、ストリートを往来する人々を撮った写真である。その画面は、ある1人の人物にフォーカスされており、その周囲(背後)は黒い闇に落ちている。
 しかし実際にはその場には、その被写体を取り巻く何人もの群衆がいたはずである。だが結果的には、それらの人々は闇に消えている。
 こうした写真を、ディコルシアはどうやって撮影したのか。その撮影プロセスは次のようなものだ。強いストロボをたき、望遠レンズによって離れた位置から撮影する。被写体は、撮られていることに気づかないという。強い光が放たれれば反応してしまうようにも思えるが、しかし日中の明るさのなかでは、ストロボの発光はそれと気づかれないらしい。
 そうやって撮影された写真は、光と闇の強いコントラストのなかに被写体が浮かびあがり、まるで映画の印象的なワンシーンのように見える。しかし、その被写体=役者は、まったく無自覚に、そのような表象の空間に絡めとられているのだ。
 これは言ってしまえば「隠し撮り」である。そしてたしかに一面では、こうした方法は、作者による撮影対象の搾取、存在の暴力的な収奪のように思える。
 しかしここで、映画的ということについて、立ち戻って考えてみる。映画とは、モンタージュの芸術である。クレショフ効果という基礎的な理論がある。ある役者の顔のショットの前に、3つのパターンの異なる映像をモンタージュする。①スープ、②棺桶、③横たわる女性。役者の表情にたいする解釈はそれぞれ、食欲、悲しみ、欲望となる。モンタージュの構成のパターンによって、同じ顔にたいする意味解釈がまったく違ってしまうのだ。
 モンタージュが、断片的な映像と別の断片的な映像との継ぎはぎによってなされることを考えると、ディコルシアの写真は、そのような映画のひとつのショット、一断片のように見える。
 しかし私たちは、映画がショットを次々に継ぎ合わせて物語を完結させるようには、ディコルシアの写真が充分な意味を与えてくれないことに苛立つかもしれない。むしろそれは、私たち自身がそうしたフィクションの観客だという前提すら、怪しいものにしてしまうのだ。
 「Heads」の観者は、三重に疎外されている。第一に、撮られていることに気づかない被写体は、カメラ目線ではない。つまり被写体は、その映画的な空間を占める一人の登場人物として振る舞っているように見えるが、映画を観る私たちは、その外部にいる。人物たちの空間と、私たちの現実の空間は隔てられている。私たちは、人物の興味=視線をこちらに引き寄せることはできない(このことは、「頭」という対象の客体性からも明らかだ)。そしてそれは、写真家自身が抱えていた疎外感でもあるだろう。その疎外(被写体と関係を結ぶことができない)と引き換えにこそ、この作品はありえているのだから。
 第二に、すでに示唆したように、それが断片的なものの地位にとどまり続け、切り抜かれた人物たちはその街中で誰と歩いているのか(あるいはいないのか)という関係性から引き剥がされているゆえに、文脈=状況的に適切な意味を私たちは理解することができない。
 第三のポイントは、ほかの2つのポイントを総合したようなものだ。「Heads」のイメージにおいて疎外されているのは、一見、周囲から切り離された被写体自身であるように思える。しかしディコルシアの撮影方法を前提として考えるなら、被写体は写真家/観者の存在に関心を向けることはなく、また、彼ら自身は、自分がどのような周囲との関係性=状況のなかにいるのかを知っている。つまり、被写体自身は、自分がどこ(の街)で誰と何をし何を語っているのかを知っている。それを知らないのは、黒塗りされた画面によって疎外されている私たち観者の方なのだ。ストロボの強い光で盲目を強いられてしまったのは、私たちの方なのだ。被写体の方はといえば、その光に気づいてさえいない、つまり知らないがゆえに見えて=知っている。
 それがより顕著になるのは、実は眼をカメラに合わせている(カメラ目線の)人物が撮られた場合である。彼/彼女はなぜ、こちらを見ているのか。気づいていないのではなかったのか。この不気味さ。合うはずのない視線が合ってしまう。「頭」が「眼」になる。そのとき、観者は被写体によって演じられる(あたかも役者が演じようとして演じているような意志さえ感じられる)映画的空間に巻き込まれ、にわかにその人物に(写真家が望遠している距離が解消されたかのように)接近され、ひとりの役者となってまなざしを交換する。そうして観者が立っているこの場所こそが、舞台となる。
 しかしそれにしても、ここはどこなのか?向かい合っている人物は誰で、自分が演じるべき役柄とは何なのか?そもそもここは何かを演じるための舞台なのか、それとも現にある現実の空間なのか?その人は役者(カメラの存在を知っている)なのか、それともただの通行人(カメラに気づいていない)なのか?私たちは、答えのないこうした疑問のなかに宙吊りにされる。眼を交わしている相手は、私たちと関係しつつ、同時に関係していない。近くて遠い身体。本当のことは、彼/彼女だけが知っている。

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勝俣涼 Ryo Katsumata
1990年生まれ。美術批評・表象文化論。最近の評論に「個人の危機と芸術――ハロルド・ローゼンバーグ『芸術の脱定義』をめぐって」(『コメット通信』第12号、水声社、2021年)などがある。