不確かな位置、先延ばされる成就――レオス・カラックス「アレックス三部作」

レオス・カラックス監督『ボーイ・ミーツ・ガール』(1983)、『汚れた血』(1986)、『ポンヌフの恋人』(1991)は、「アレックス三部作」として知られるように、いずれもドニ・ラヴァン扮するアレックスという名の男が登場する映画だ。しかし、3人のアレックスは、顔も名前も同じ人物でありながら、別々の世界に生きているまったくの別人という印象を受けもする。たとえば『汚れた血』は近未来という設定であるのにたいし、『ポンヌフの恋人』は制作年と同時代という設定である。他方で、いずれもパリという舞台、そして繰り返せば同一の名前と風貌をもつ登場人物において共通している。
 こうした奇妙なズレと一致のためにアレックスという人物は、転生といったテーマを介在させることなしに(誰々が誰々の生まれ変わりであると判断されるとき、それはある歴史物語上で両者が同様の「役割」を遂行するという構造的な符牒の一致においてであるように思われるが、アレックス三部作では名前と風貌という外面的な記号へと同一性が強く集約されてしまう)、しかし別々の時空によって共有されており、文脈から文脈へとその身体が複製され分配されているかのようなのだ。だからこの気味悪さとは、個々の映画における説話の内容からくるものではなく、3つの映画を連ねて視聴する身体、つまり映画の外における鑑賞のコンテクストにおいて立ち上がってくるものだ。それぞれの作品はまた、技法という点でも基本的な違いがあり、すなわちモノクロ/カラー、作り込まれた構図による長回しショット/疑似ドキュメンタリー的なリアリズム描写といった差異によって隔てられている。
 3つの映画におけるアレックスは、同じだが違う。『汚れた血』のアレックスは落命するが、ラヴァンによって演じられる人物は、始まりと終わりによって限界づけられる「一度きりの人生」には回収されない。少なくとも、鑑賞のコンテクストにおいては。むしろ3つの時空・人生は並列的に成立している。「アレックス」はそのいずれにも存在し、存在しない。この位置の不確定さ。
 こうした状況を、パラシュート降下という『汚れた血』のワンシーンを頼りに、宙吊りと呼んでもいいかもしれない。しかし実のところ、3作品における位置不確定とは、反重力的な表象によって示されるだけでなく、きわめてリテラルな「重さ」によって示されるものでもあるのだ。やや性急に言ってしまえば、それは断片の過剰な備給、そしてそれが埋められないかぎり断片(ピース)を欲望し続ける、パズルの穴にもたとえられるような欠損をあらわす重さである。
 『ポンヌフの恋人』のアレックスは、文字通り位置不確定なホームレスであり、足を怪我している。この怪我のために跛をひいて歩くその動きは遅く、鈍重である。つまりそれは、身体的な欠損によって抱えた重さ、のろさである。こうした重さや遅さからの解放、スピードや運動への欲望は、アレックス三部作を一貫している。
 欲望というものが満たされないゆえに注ぎ込まれ続けるものである以上、その不満や喪失が耐えがたいものになればなるほど、運動エネルギーは過剰に備給される。ここでは軽やかさと重さ、速さと遅さ、供給と欠乏が同じ事態の2つの側面となる。
 『ポンヌフの恋人』においてそれはたとえば、水切りの石の軽快な跳躍と、無造作に河へ投げ込まれ、ぼちゃんと落ちる石の無抵抗な重さとの関係であり、弱視という欠損によってこそ共にいることのできた彼女が治癒のために去ったことを知り、アレックスが自らの手を撃つことで欠損を取り戻すように反復する行為である。あるいは『汚れた血』のラストシーン、ジュリエット・ビノシュ扮するアンナがアレックスの死に直面し、両手を広げて滑走路を疾走する、その過剰なブレ、編集加工性が露出する画像のオーバーな乱れ、(飛行)機械=装置と化した身体。それはまるで、目的地を求める過剰な欲望の流れのために物語の説話的軌道を外れ、犯罪による逃亡を目論んでいたはずがその筋書きそのものの外へと脱出し、映画というメディアを構成している装置の物質性によって映画の表象空間が浸食されてしまったかのようだ。そうした外部性は同作の冒頭、電車が通過する映像において、窓の連続的な横切りが、フィルムのフレームが送り出される装置的運動を連想させることにもすでにあらわれていた。『ボーイ・ミーツ・ガール』のパーティー会場のシーンで、前を通り過ぎる人々の黒いシルエットに同期してフィルムのコマが送り出されるように場面が切り替わる演出もまた同様だ。そして黒い画面によってショットを不自然に分断する技法は、そうした映画内外の越境・交錯のもっとも簡潔な表現だろう。
 『ボーイ・ミーツ・ガール』では、アレックスの早口で長いモノローグが、「トラックのような重さ」から逃れて飛びたいのだと願望を語る。ミレーユ・ペリエ扮するミレーユへと浴びせられるその言葉が説くのはおよそ、アレックスとミレーユ、アレックスの元恋人のフロランスという3人が共鳴して幸福な愛の関係をつくり、アレックスは自己の殻を打ち破りたいということだ。それによって示唆されるのは、3つの結節点を結んでかたちづくられる星座のイメージである。
 だが星座とは、互いに離れた星々の関係である以上、融合ではなくむしろ媒介的な距離をその条件としている。つまり星座的形象の閉じた輪郭は、立体的な遠さによってこそ成立している。同じ関係を共有していながら、互いに離ればなれであるというわけだ。
 そのことは、『ボーイ・ミーツ・ガール』のラストシーンに明らかである。2人の男女が距離を詰め、ついにひとつになったその瞬間に、女の死という喪失が現前するのだから。それは、先のモノローグのなかで詰められては開かれる、車間距離の伸縮と響きあっている。またミレーユの元へ走るアレックスの足の動きは、ミレーユが手にした鋏の動きと類推的な関係を結んでおり、2人の距離が縮まっていく状況は、2つのフォルムの類似という記号的な近さによっても強調されている。だがほかならぬその鋏が再距離化を強いることになるのであり、その近さと遠さの拮抗は、同作における数々のチェック柄の事物の視覚的な類似に対し、それらが位置づけられるシチュエーションの方は相違しているという状況、あるいは『ポンヌフの恋人』において、火吹きと航空ショーによって共有される轟音が類縁的記号となってショットに連続性を課しながら祝祭的なムード――それは怪我や弱視といった欠損を抱えた男女がときおり見せる、動物的な激しい動態、欲望の横溢と共犯関係にあるだろう――の持続を演出する一方で、火が死と離別をもたらすという顛末が上書きされる事態に等しいかもしれない。
 ところで、男女の三角関係という理想は、すぐれて「理想」らしく、見られた「夢」として語られるイメージでもある。『汚れた血』でアレックスがアンナに語るその夢の話は、しかし本当にその場で「対話」された言葉なのか。どういうことかというと、アレックスとアンナは隣り合って座っており、その映像に重ねてアレックスの夢を話す声が流れるのだが、映像ではアレックスの口が動いていないのだ。ではそれは、アレックスが実際に発している音声ではなく、「夢」にふさわしく思考あるいは心の内で流れている声なのか。しかし事態をややこしくしているのは、本作におけるアレックスは、腹話術という特技をもっているという設定であり、ゆえにここでの言葉も、口を動かすことなく実際にアンナに発されていると解釈することが可能なのである。
 ここでは声の所在こそが位置不確定になっており、しかしそれによって混乱を強いられるのは、映画の中の人物たちではなく、ちょうど「3人のアレックス」による困惑の標的でもある、私たち鑑賞者の方なのである。テレビの中の声とアンナの発する声とが判別困難に陥る、同作に差し挟まれるあるモンタージュの効果もそれを遂行している。あるいは『ボーイ・ミーツ・ガール』の冒頭に流れる子供の言葉が、文字を書きながらそれを読んでいる状況を示唆しながら、文字そのものは映されずにペンを運ぶ音と声だけが浮遊している(ある指標記号だけが鑑賞者に与えられる)こと、また手話通訳者の声が別人が喋っている映像に重ねられる編集処理がもたらすのも、因果関係の全体を鑑賞者に呈示することを拒むような、遊離した音声の漂流である。こうしてまたも、映画は映画の外と絡みあう。
 『汚れた血』で夢というモチーフが、発声器官からの声の遊離という事態において表現されていたこと、言い換えれば、声を声たらしめている機構の外面的特徴が不在であるために非視覚化されていたことは、「直接見ることができない」ものとしての夢の地位を、周到に表現している。事実、アレックスはアンナを直接見ずに、鏡を介して見つめ、その美を想像的に享受している。夢は目を閉じて見られるものだ。『ポンヌフの恋人』で眠る人々の姿が連続的にモンタージュされていくシーンは、女の視覚的欠損(盲目になりつつある弱視)によってこそ恋愛関係すなわち夢のような快楽が成立している男女の状況を、やはり夢の非視覚性・非直接性のニュアンスによって補強するものだろう。
 しかし『ボーイ・ミーツ・ガール』の星座的理想像が避けがたく距離によって隔てられていたように、夢もまたその媒介性・非直接性ゆえに破れうるのであり、いつまでもその快に没入することは許されない。その破れとは、想像的に擬装された没入=直接性の破れであり、それは鏡やガラスの表面に漂うタバコの煙が開示する距離によって象徴されるものである。空気に媒介される煙が表象されるには、空間の開きがなければならず、逆に言えば煙の表象とは空間的な距離の露呈そのものでもあるのだ。あちら(鏡像)とこちら(身体)のあいだには、壁や距離がある。それによって同一化の実現を阻まれるかぎりにおいてこそ、夢や欲望は未だ実現されないものとして輝く。
 アレックス三部作の映画制作を動機づけていたのは、そのような未遂の持続、夢と現実の交換の反復であり、映画の内と外の往還だったのではないだろうか。ドラマに没入し意味解釈する鑑賞者の幻想=夢はところどころで差し止められ、彼/彼女の知覚が映画というメディア、装置によって物質的に強いられている現実性を攪乱的な形で突きつける(位置の不確かさ)。しかしこの差し止め=欠損を介してこそ、「アレックス」は2度にわたって反復されえた、あるいはされなければならなかったに違いない。
 『ポンヌフの恋人』のラストで、石が無抵抗に落ちるように河に落ちた男女は、またしても「重さ」によって欠損や喪失を強いられるのかと思いきや、その推測に反して唐突に恋愛は成就する。3作品を通底する目標であったともいえる、パリからの脱出という悲願もそれと同時に叶えられてしまう。アレックス三部作の最後の作品である本作以後、自身の身体をアレックスとして映画内に投影したとされるカラックスが長い沈黙に入った事実を、この成就に結びつけるのはあまりに素朴だろうか。

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