勝俣涼 Ryo Katsumata
密着と離散の行程――ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』

密着と離散の行程――ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』

勝俣涼 Ryo Katsumata

あらゆる所有物も記憶も喪失したような男トラヴィスが荒野をひとり放浪する印象的なシーンから始まるのが、ヴィム・ヴェンダース監督のロードムービー『パリ、テキサス』(1984)だ。
 行き倒れたトラヴィスの弟が病院から連絡を受け、カリフォルニアからテキサスまで迎えに行く。4年ものあいだ行方不明になっていた兄と、弟はそうした形で再会することとなる。何とか兄を見つけ、車に乗せる弟だったが、兄はまったくの失語状態にあり、何も喋ろうとしない。やっと喋った彼は、かつて購入したテキサス州のパリスにある空き地のことを話す。そこは彼らの両親が初めて愛し合った場所であるといい、トラヴィスにとっては自らの遺伝的な起源となった場所である。
 トラヴィスはこのパリスへ行こうと言うが、結局は弟に連れられカリフォルニアの家へ行くことになる。だが飛行機に乗るのを拒んだトラヴィスのために、兄弟は車に乗り続けることになる。というわけで、途中で運転を交代しながらの道行きとなるのだが、運転席と助手席を替わるシーンのあと、助手席のトラヴィスと運転する弟が、それぞれフロントガラスの左右に分割される形でフレーミングされ、交互に映される。ここでは、断片化したガラス(を通した人物の形象)の交互接続が、運転の交換=入れ替わりという動作の前提条件となっているかのようなのだ。つまり、「交換」という手続きが可能であるためには、交換される人物・ショットのそれぞれは、分節されていなければならない。
 車内という空間で、もうひとつ、断片的なものの相互接続が捉えられる。バックミラーに映る目(視線)と、フロントガラスの向こうに広がる風景が、同じひとつの画面に入れ子状に収まっている、その光景こそがそれである。だから言ってみればそこでは、「反射」と「透過」が同在している。
 しかしそこでバックミラーに反映する視線は、それ自身と鏡像的に見合っているわけではない。それは話している相手への目配せであり、それはだから「別の」何か/どこかへの視線の送り届けであるという点で、フロントガラスからの「外への」眺望とむしろ似た機能を果たしている。
 反射と透過という2つの異なる作用が、しかし共に、外部への展開・散乱という事態をもたらすのに貢献しているという共犯関係。鏡像というイメージがつねに、鏡とそれに映るものとのあいだの空間的な「距離」を条件としてしか生じない以上、反射が閉じた同一性ではなく差異化や転換といった運動を遂行することはけっして不思議ではないのだ。
 したがって『パリ、テキサス』における「鏡像的なもの」とは、ナルシシズム的な自己充足のような閉じた感覚をもたらすのではなくむしろ、距離を隔てた向こう側にある何ものかとの関係性という土台を明示しているといっていいただろう。
 さて本作では、「赤」という色が特権的な地位にあり、操作対象となっている(青も多用されているが)。赤い色を纏った2つの形象が、ある関係性に置かれる。そのパターンは2つある。
 一方で、赤い帽子をかぶったトラヴィスが宿の赤いベッドに座る、あるいは、顔に赤みを帯びたトラヴィスがレストランの赤い座席に座る、といったような、密着性をともなう同語反復的な地と図の関係によって領域が赤のうちに閉じられ、相互浸透して融合する、という一体化の方向性。
 しかし他方で、次のような配置関係がある。すなわち、トラヴィスと再会した息子ハンターが、トラヴィスの失踪中に育てられた叔父夫妻の元を離れて(ここで、仮の、とはいえひとつの家族が瓦解し離散することとなる)、トラヴィスとともに、トラヴィスの妻でありハンターの実の母親であるジェーンを探しに行く道中、父子は2人とも赤い服を着ている。しかし彼らの間にどうしても際立ってしまうのは、親子としての堅い密着性であるよりは、4年にわたるディスコミュニケーションという事実がバックグラウンドをなす、その距離性である。それを裏づけるかのように、ジェーンを探す彼らはトランシーバーを使って遠隔交信するのだ。終盤で父から息子へ残される、録音された音声もまた、直接的なコミュニケーションが阻害される状況を示している。あるいはまた、ジェーンを見つけ、彼女が乗る赤い車を追跡する父子。だが前方には、赤い車が2台並走している。ここにも、分節=分割された赤の断片が差し込まれており、その複数性がジェーンの車の特定可能性の確率を下げるために、それは家族3人がふたたびひとつになろうとする欲望への抵抗としてあらわれているといえる。ここにも執拗に、鏡像的なものの並列が準拠する「距離」が介在している。
 赤いものの関係性の対照的なパターンによってあらわされる2つの状況は、物語が進むにつれ、後者から前者へと移行するかに見える。つまり、バラバラになった家族はふたたび同一性を回復することを目指すかに思える。トラヴィスがついに見つけた妻は、コスプレ風俗のような店で働いていた。そのプレイ・ブースは、様々なシチュエーションに設えられた向こう側のスペースと、こちら側(客側)のスペースがハーフミラーで仕切られている。ハーフミラーとは、鏡とガラス、すなわち反射性と透過性を併せもつ素材であり、明るい方から暗い方を見ると鏡となり、暗い方から明るい方を見るとガラスとなって向こう側が透けるというものだ。照明に満たされた女性側のスペースでは、つねに仕切り板は鏡であり、客側を見透かすことはできない。反対に客は、女性に見られることなく、一方的に女性を見ることができるというわけだ。見る―見られるの非対称的な力学がここにある(*1)。客と女性は、電話を通じて話すことができる。
 この非対称的な力学関係はしかし、トラヴィスの告白(その語りのあいだ彼は、ハーフミラーに背を向けている、つまり見ていない)によってジェーンが鏡の向こうにいるのが夫であると察知し、2人が接近するにいたって、解消されるかに見える。ジェーンが普通消されることのない部屋の照明を落とし、境界面が双方ともいわば半透明かつ半反射的な二重の属性を帯びることで、近づけあったトラヴィスとジェーンの顔が重なりあって融合する。つまり、妻の顔と夫の顔がひとつになる。この兆候はすでに、弟夫妻の家でトラヴィスが観た、かつて家族がひとつだった頃の8ミリフィルムに映っていた、トラヴィスとジェーンが顔を寄せあっているシーンにあらわれていたのではないだろうか。そこでも奇妙に、まるでマティスの左右が分割された肖像のように、顔の半分ずつを持ち寄ってひとつにしたような、密着した=親密な夫婦の風貌が出現していた。
 しかしこの密着性が家族3人の結束へと止揚されることは、結局なかった。トラヴィスは息子が待つホテルの部屋を妻に伝え、立ち去ってしまう。夫と妻の密着性は最終的に、ホテルの部屋で再会を果たした母子が抱き合い、母が子を抱え上げて歓喜し回転する、その密着性へと書き換えられる(*2)。そしてトラヴィスはそれを見届け、ひとり車で夜道に繰り出したのだった。密着への欲望と、それを阻害し引き離すある現実原則との、終わらない戯れ。『パリ、テキサス』とは、こうした集束と散乱がせめぎあう場所なのだ。じっさいにその場所はいわばトラウマティックな原光景の舞台であり、いまだ充足を得ていない「空き地」でもあったのだから。


(*1)ハーフミラーを素材とする作品によって視線の力学を考察した美術家として、ダン・グレアム(Dan Graham, 1942-)がいる。
(*2)ヴェンダース監督による別の映画『ベルリン・天使の詩』(1987)の最後にも、抱擁と回転という象徴的な身ぶりが見られる。

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勝俣涼 Ryo Katsumata
1990年生まれ。美術批評・表象文化論。最近の評論に「個人の危機と芸術――ハロルド・ローゼンバーグ『芸術の脱定義』をめぐって」(『コメット通信』第12号、水声社、2021年)などがある。