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心と体に向き合う

ちょっとしたご縁があって、認知症の方と接する機会が増えることになり、認知症の理解を深める目的で、いくつかの研究資料を読む機会に恵まれました。

いろいろ深く考えると、正直、滅入ってしまう部分もある一方で、もっと多くの人に理解が広がれば、高齢者等への対応が変わるだろうし、未然に防げることも増えるのでは……と感じました。

たくさん得た情報のなかで、気に留めておきたいと思ったことを備忘録方々日記にまとめておきます。

わたし自身は、自分の祖父・祖母と一緒に暮らしたこともなく、身近なところでいわゆる「認知症」の人と暮らすという経験はありません。

だから……というわけではないですが(語弊もあるかと思いますが)、ざっくばらんに、認知症というと「ボケちゃった」という認識でした。記憶が保たれない……というようなイメージですね。

もちろん、一言で「認知症」といっても、いろいろな種類や症状があると思います。

……で。

認知症の方と接するにあたり、「パーソンセンタードケア」という概念があるそうです。詳しいことはこちらのサイトがわかりやすいです。

認知症になると何もわからなくなる訳ではなく、自分のことをうまく表現することができないだけなのです

https://www.unimat-rc.co.jp/media/person-centered-care

記憶が無くなったり、状況が把握できなくなる……というのではなくて、表現(出力)になんらかの障害が発生しているというような感じですね。

介護の業界?では、「問題の外在化」という表現をしているようですが、個人と疾患を同一視せず、「個人」「疾患」を明確に切り分けるという考え方です。

かなり抽象的な表現をすると「罪を憎んで人を憎まず」という発想でしょう。

これはどういうことに繋がるか……というと、たとえば「字が書けない」という症状があったときに、その人が「字を忘れてしまった」「わからなくなってしまった」というのではなく、なんらかの障害があって本当は書けるのに出力的には「書けない」という状態になっているという感じでしょうか。

事例では、暴力とかそういう感じの「出力結果」が提示されていましたが、本人が本当にそれを望んでいるのかというと別という感じですね。出力結果だけ見ていたら、ただの暴力的な人ですから、そこからは解決に向かいません。

だからね。これで思うことは、まず「出力結果」のみで判断しないこと。その人の背景だったり、どういう発動条件があるのか……などに思いを馳せることが重要ってことですね。

もうひとつは、思った通りに「出力」されないという状態は、本人にとっては本当につらいだろう……ということですね。本当はご飯を食べたいのに、食べようとすると暴力になっちゃうとか。(わからないですが)

いずれにしても、「罪を憎んで人を憎まず」精神で接し、相手を慮るということをよくよく配慮しなければならないと思ったのでした。

同時に思ったのは、脳の神秘というか、心と体が繋がっていない状態のようなものですから(思ったことと行動が違ってしまうから)、脳には心と体を繋ぐ機能であって、心というものは、体の中に入っていない可能性もあるな……と。(なんのこっちゃ)

いや、それを魂というのなら、肉体が無くなっても、魂は残るっていうこともあるな……という変な話です。そんな感覚ってありますよね。(無いか)

資料の中には、「認知症がかなり進んでも感情は保たれる」とありました。

脳も含め、身体的なもの、要するに物質的なものの経年劣化はするものの、心は衰退しないということじゃないかな……と感じました。

正直な感想というか、印象としては、介護従事者の負担って、計り知れないな……という感じではあります。ただ、これまでの時代を切り開いてきた人たちへの恩返しにもつながることなのかなと。

また同時に、各個人ができるだけ健康寿命を延ばすというような発想が必要だなと思った次第です。

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