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アイスホッケーを始めた経緯から現在まで

こんにちは、田中涼です。

今回は自分がアイスホッケーを始めた経緯から今までの生活、現在までの記事を書きたいと思います。長くなりますが最後までどうぞよろしくお願いします!自己紹介の記事でも紹介した通り僕は小学校4年生からアイスホッケーを始めました。現在も大学で続けているわけですが現在はコロナウイルスの影響で例年通りの活動ができていないというのが現状です。

始めた経緯

さて、本題に入っていきたいと思います。自分がアイスホッケーを始めたのは小学4年生の頃、同じ町に住む2つ上の先輩が「アイスホッケーの体験に来てみない?」誘ってくれたからです。正直この言葉がなければ今の自分はいないと思います。会えることはないですがこの場を借りて感謝したいと思います。

始めた体験に行った自分はもともと運動神経はよく、氷の上に乗って滑ることがあまり難しくないと感じました。この時点でスケートをすることは2回か3回目だったと思います。正直天狗でした。俺「うまいんじゃね?」と思っていました。初めて体験に参加したのは小学4年生の10月で毎週2回ほど練習に参加させていただいていました。

僕がいた小学校では小学4年生の頃の2月になると近くのスケートリンクで一般滑走をするという行事がありました。そう、僕は天狗状態です。ほかの友達よりもスケートができる僕は調子に乗りまくっていました。環境が環境で、浜松市ではスケート人口がかなり少ないです。北海道と比べてしまうと僕はかなりちっぽけであります。いざ、スケートの行事が始まりみんなのことを見下すように滑っていました。調子に乗ってバックスケーティングなどもしてました。今思えば大変お恥ずかしいお話です。(笑)当時はそれがかっこいいとでも思っていたのかもしれないですね。小学生の頃は目立ちがり屋だった気がします。話が少し脱線しましたが始めたころにこのような出来事がありました。

ちびキャプテン

小学校6年生に上がり、チームのキャプテンを務めることになります。当時の身長はなんと、「140cm前後」。。僕はいわゆる「チビ」です。かわいいですね(笑)しかし、キャプテンを務めるのに身長は関係ありません。正直僕はみんなのことをまとめたりすることが好きです。まとめる能力は別として。僕のホッケーの実力はチームの中ではありましたが、ほかのチームと比べると僕たちのチームはどこにも勝てない弱小チームでした。時には30点差をつけられて負けるほどでした。アイスホッケーは大量得点が少ないスポーツだと思いますが負けた時は恥ずかしさ、悔しさの気持ちでいっぱいでした。こうしてキャプテンとしてチームをまとめていたのにもかかわらず全く試合に勝利することができませんでした。僕がキャプテンとしての最後の大会、なんと勝利することができたのです。今まで勝てなかったチームで勝てて大変うれしく思ったことを今でも覚えています。次の試合は負けて試合後に悔しくて泣いていしまいましたが小学生の頃にキャプテンとしてチームの活動できたことに誇りに思います。*この記事の上記の写真は2試合目の後になります。

中学生に上がって

僕は中学に入学し体力づくりの目的のため陸上競技部に入部します。僕のホッケーの先輩も陸上競技部に所属していました。陸上部の練習に参加した後にホッケーの練習をする。ホッケーの練習は基本的に夜に行われます。(リンクの営業時間の関係)小学生でも21時から練習があります。そのため部活を放課後から行いそのあとにホッケーの練習に行く、というハードな生活をしていました。ホッケーの練習は毎回が楽しみだったので全く苦ではなかったです。好きなことをやるのはこのようなことかと感じていました。そのおかげで(言い訳です。)僕は全然勉強をしない中学生でした。正直後悔しかないです。昔の自分に会えるなら「ホッケーもいいけど、数学の勉強をやれ!」と言いたいものです。

中学のホッケーの試合では僕が中3に上がるまで小学生の頃同様、全く試合に勝てていませんでした。かなりの人手不足でした。そしてまた最上級生になり中3の頃はチームキャプテン務めることはなかったですがゲームキャプテンを務めていました。ここでかなりホッケーに対しての意識が変わります。

それはなぜか?ホッケーで高校に進学を考えていたからです。大体夏の近くの大会には高校の監督が中学生をスカウトしに観戦にきます。そこでどうにかいいプレーを見せようと自分を鼓舞していました。高校の練習に参加したりもしました。そして8月末の大会でいい感じのプレーで得点を取ることができました。たまたまそこには高校の監督が試合を観戦していて試合後に「うちに来ないか?」と声をかけられることになります。そこは横浜にある高校からでした。結構悩みました。男子校だったからです(笑)その時は滋賀にある高校と迷っていました。

僕は行く高校を1か月間悩んだ末、横浜の高校に進学することを決めました。理由は、将来的に関東の大学に入学したくて、その高校は大学とも練習試合をするため大学生相手にいいプレーをすれば目に付きやすいと思ったからです。進学を決めた後の中学ホッケーは徐々に勝てる試合が多くなったような気がしました。9月頃から、「毎試合点を決める」そんな選手だったと思います。

ここでちょっと余談!陸上競技部に入部した僕は2年生の途中で短距離の種目から走り幅跳びに転向します。速筋を使うのは得意で、一瞬に出す力は他の人よりも長けていると思います。そのため走り幅跳びを始めました。走り幅跳びはフォームや踏切、着地などすべての動作が難しい種目です。始めたころはかなり難しく、なれませんでしたが練習していくうちに形になっていき記録がどんどん伸びるようになりました。中学3年生の県大会に通じる大会の予選で好成績を出すことができ県大会に進むことができました。自分の努力が実った結果でした。県大会では、踏切が合わずファールばかりで予選ではかなく散りました。これにて公式戦は最後で引退しました。引退した後は毎日にように幼馴染と放課後の鬼ごっこから始まり、遊びほうけていたと思います。

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寮生活の始まり

中学を卒業して親元を離れて寮生活をする。そんな人はなかなかいないと思います。「ワクワクもあれば不安」もかなりありました。中学生まで親任せの自分が自立してやっていけるだろうか。本当に大丈夫だろうか。不安のほうが勝ってたかもしれません。いざ入寮してみるといい人ばかりでした。同部屋は1つ年上のJさん。かなり熱血的な人で綺麗好きで意識が高く僕とはあまりにも違う人でした。

寮での生活は朝6:55から朝掃除、点呼、朝食、夕食は18:30、夜掃除20:30、点呼、23時消灯という普通の高校生ではしない生活を毎日しました。オフの日に遊びに行っても20:30には掃除が始まるから帰らなければならないし、20:30以降はお風呂にも入れなくなるのでそれよりも早く帰ってきていました。当然、普通の高校生の生活をしたいと思いました。何回も寮監の先生に「門限を遅くしてください」と頼み込んだこともありましたがもちろん時間は変わらず。でも、逆に考えてみれば毎日同じ時間に起きて、同じ時間に掃除して、という生活を送っている高校生は少ないと思い、自分は貴重な経験をしていると思うようになりました。

高校での生活は高校3年生に上がるまで順風満帆な生活をしていたと思ます。(部活除く)中学の頃勉強しなさ過ぎて後悔したので高校ではしっかり勉強しようと心に決め成績ではクラスの上位には入っていたと思います。数学だけは赤点しかとったことなかったですが、、、(笑)それほど数学が苦手でした。2年生になり文系の道を選んだため数学の授業が0になりかなり成績が上がりました。

一方、部活動はというと、1年生のころはほとんど試合に出させてくれませんでした。それもそのはず、自分のプレーが評価されていなかったからです。試合に出れない、かなり悔しいです。しかしそこで自分は試合に出たいから努力する、という行為を怠ってきました。学年が上がれば試合に出れるはずとこの時は思っていました。今考えるとまじでアホです。両親にものすごく高いお金を払ってもらっているのに情けない。これに気付くのがかなり遅くなりました。

2年になって、試合に出ることは1年生に比べたら多くはなりました。しかし、大事な場面で投入されることはありませんでした。やはり悔しいです。2年生の10月シーズン真っただ中に僕は右手の中手骨(小指側の手の甲)を骨折します。受験シーズンでもあり3年生が試合の遠征に参加できない中僕はチームに大迷惑をかけます。もちろん監督にもこっぴどく叱られます。骨折した理由はホッケーでの骨折ではなく自分の不注意によるものだったからです。この時ほんとに全部がしんどくてホッケー辞めたいと考えるようになりました。ネガティブなことばかり考えていたので当然、普段の生活からうまく物事が進みません。活力が出ない、どうしたらいいかわからない、そんな風に悩んでいるうちに頭に両親の顔が浮かんできます。(書いてたら思い出して泣きそうです)情けなさ過ぎて自分は横浜までホッケーをしに来て意味があるのか、地元の高校に進学したらこんなことを思わなくてもよかったのではないか。色々考えることがありました。

高校3年生になり最高学年になって寮長を務めることになりました。自分の代で寮生は3年間で一番多い人数になりました。まとめるのは大変だし、自分の話は聞いてくれない、馬鹿にされるといった歴代でもかなり馬鹿にされた寮長でしたきっと。仕方ないです、だって試合に出ても活躍できないんですから。そんな風に思って今した。ホッケーがうまくないので説得力がないからです。ヘナヘナしてる自分に同期から僕に対しての喝を入れてくれます。気づきを与えてくれた同機には感謝しています。自分がどういう立場に立っていて、どのようなことをしなければならないのかというのが明確になったと思います。

あまり自主練をすることがなかった僕は少しづつ自主練を始めました。ランメニュー、ウェイトトレーニング、スキル練習と数をこなしていくうちに試合で得点を決めれるようになってきたのです。そこから自信がつき多少ながらも説得力がついてきました。いい結果につながったのかなとおもいました。高校での戦績はあまりいいものではなく夏の全国大会には3年間1度も出場することができず、自分たちの代でホッケー部が創立されてから初めてでした。最後のインターハイでは初戦敗退とかなり苦い思い出で引退しましたが、高校三年間で学んだことを次に生かそうと前向きになっていました。

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大学ホッケーのはじまり

大学は神奈川大学に入学しました。入学前の3月から北海道での2週間の遠征が始まりました。自分はやる気に満ち溢れており同期の中でもバチバチになったりしてほかの同期からは「なんであいつはバチバチにやっているんだろう」と思われていたと思います。そりゃ、試合に出たいからに決まっています。4月最初の公式戦、僕は1セット目で試合に出ることができました。しかし、僕の悪い癖、また天狗になってしまったのです。そうなってしまえばあたりまえのようにただ練習をこなす、という練習のための練習になっている状態になっていました。秋のリーグ戦、10試合のうち出れたのはわずかでした。愚か者です。スーツで試合観戦なんて恥ずかしい話です。そのまま1年生があっとゆうまに終わりました。

2年生に上がり新しく1年生が入ってきました。2020年、コロナ禍により部活動が9月中旬まで活動されない中僕は何をしていたかというと遊びほうけていました。体は動かさずゲーム三昧です。体重も5キロほど増えてしまいました。かなり時間の無駄です。僕の幼馴染が自己発信を始めるなか僕はゲームです。まったく将来のことを考えてきていませんでした。しかしその友達は「人生は一度きり」「いつ死んでも後悔なき毎日を」というモットーを掲げて頑張っています。(また僕の幼馴染についてはnoteにて公開予定です)なのに自分はそれに気づくことなく部活が始まっていきます。新1年生はフレッシュで1年前の僕を見ているようでした。2回目の秋のリーグ戦全試合ベンチ入りで試合には出ましたが0ゴール。情けないです。点を決めないと勝てないスポーツであるのにかかわらず決定力が無い。悔しかった。来年は絶対にこうならない。そう思いました。

2021年4月から3年生になります。上級生です。これまでのような怠けた生活はしたくない。幼馴染の自己発信を見て自分もなにかに挑戦したいと思いました。挑戦をしないことが人生での最大のリスク、このような言葉を聞いて僕は「挑戦」自己発信を始めました。新しいインスタグラムのアカウントを作り、主に筋トレ、読書、思ったこと、考えたことについて発信をしていく予定です。僕のインスタグラムアカウント↓


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気になった人は覗いてみてください!

おわりに

最後までご覧いただきありがとうございます。僕は普通の人と違う経験をしてきたと胸を張って言えます。特に高校で寮生活でのことは大きいです。寮生活を経て、両親のありがたみを身に染みることができます。感謝でしかないです。僕のこれまでの人生、大体お分かりただけたでしょうか?このようなことがあり今の僕があります。これから今まで以上に何事にも全力でやり切ります。後悔したくないからね!!!

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